偉人の墓を巡る、墓マイラーとは?
史跡巡り好きには、天守閣のある城が好きな人、山城が好きな人、縄張りが好きな人、好きな人物ゆかりの場所をとにかく制覇するのが好きな人、など好みがあります。
もちろん私もそれらが好きですが、自分をあえて分類するのであれば、偉人のお墓を巡る「墓マイラー」です。
なぜお墓を巡るのかは墓マイラーによって理由はそれぞれ。
私の場合は、”お墓や供養塔こそ、人生・想いが集約されているように感じられる”からです。亡くなった場所に建つお墓、生前に建てられたお墓、遺体も遺髪もない供養碑、一見関係のない場所に建つ供養塔……。
そこには、その人物や周囲の人、その人を想う人たちの気持ちが込められています。そうした場所で偉人の人生を振り返り、自分なりに想いを馳せることが十代からの私の趣味です。
ですのでこのコラムでは、偉人にまつわるエピソードやお墓にまつわるお話を紹介したいと思います。
不動の人気・変わる織田信長像
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり」
”人の世の五十年は、下天(天界)に比べれば夢まぼろしのように儚いものだ”。
これは織田信長が好んで舞ったという、幸若舞(こうわかまい)の演目「敦盛」の有名な一節です。人の世が儚いとはいっても、歴史に名を残す人の人生は彩り豊か。深イイエピソードから、信じられないような逸話まで伝わっています。
織田信長も数々の鮮烈なエピソードをもつ一人。
歴史ブームが起こってから十数年が経ち、石田三成や大谷吉継など女性人気がグッと上がった武将もいます。
そんな中でブーム以前から現在まで衰え知らずの人気を誇っているのが織田信長。好きな武将アンケートをとれば毎回片手に入るほどの人気です。
そんな英傑・信長の人生は四十九年。家臣・明智光秀の謀反によって命を落とすまでの人生を、時には親族と、時には家臣と争いながらも駆け抜けていきます。
信長の人生を歴史ドラマで描くときには、ほとんどが「天下布武をとなえた戦国のカリスマ的存在」として、苛烈な人物、あるいは革命児のように、他の人物とは一線を画して描かれることが多いですよね。
従来は、「兵農分離」「楽市楽座」「鉄炮による戦」といった時代の先駆者としての信長や、「比叡山焼き討ち」や家臣への厳しすぎる処罰などが、信長のイメージ像としてあったと思います。実際、私も歴史の授業でそう習ってきました。
ところが近年、信長のイメージは少しずつ変わってきています。
例えば「天下布武」の「天下」とは、日本全国という意味ではなく、畿内とその周辺という意味合いで使われていたのではないかということ。
朝廷などの権威をないがしろにしていたどころか、権威をうまく利用していたと考えられること。
「楽市」は六角氏や今川氏の方が早かったと考えられること…等々。新説が全てではありませんが、従来の信長像は先進的イメージが先行しすぎていた部分はあるようですね。
その一方で、苛烈と捉えられがちな信長を「不器用な人」「おもてなしの人」など別の視点から見ようとする動きもあり、「人間信長」としての魅力は増していっているようです。
そんな様々な面を見せる偉人・信長の墓所はどこにあるのでしょうか。
京都・大徳寺「総見院」
織田信長の墓所・供養塔は、全国に十五ヶ所ほどあるといわれます。
なんと京都だけで五ヶ所もあるので、とても全ては紹介しきれません。ですので今回は京都のお寺、二つに絞ることにします。
まずは、多くの戦国武将が眠る場所・大徳寺。数ある塔頭の中で、信長や織田一族の供養塔があるのは「総見院」です。
天正十(一五八二)年六月二日未明、信長の家臣・明智光秀の謀反により、信長が滞在していた本能寺が襲撃された事件「本能寺の変」。
これにより信長は自害し、同じく京都にいた信長の嫡男・信忠も二条御所で命を落とします。焼死体が多かったため、信長と分かる遺体は発見されず、その行方については今も分かっていません。
その本能寺の変から四ヶ月後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって信長の葬儀が行われたのがこの大徳寺。
「総見院」は、秀吉が信長の一周忌に間に合うように建てた寺院で、「総見院」という名は信長の法名からとられています。
この大葬儀は、信長の死後、秀吉が天下取りの一歩として織田家臣中のトップに躍り出るエピソードとして欠かせないものです。
一般的には、明智光秀との「山崎の戦い」、織田家中の「清州会議」、柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」がドラマで取り上げられやすいですね。
ところが江戸時代、民衆の間では、講談や歌舞伎で「大徳寺焼香」として、秀吉が織田家のトップとなっていく様子を描いた重要なシーンとして伝わっていきました。
総見院の本堂には、特別公開の際に見られる「信長の木像」があります。
もとは二体あり、一体は秀吉が行なった信長一周忌法要の際に火葬されました。
その時に木像が乗せられたと伝わるのが上の写真の輿です。総見院に行かれる際は、こちらも見逃さないようにしてくださいね。
信長の肖像画は数多くありますが、そのどれもが鼻に特徴があります。総見院の信長木像も同じような特徴を持っているので、事前に色々な肖像画を見てから行くと良いかもしれません。
総見院には、信長や嫡男・信忠など織田一族の供養塔がずらりと並んでいます。信長本人の意図しないところで、家臣たちによる政争があった場所だと考えると、遺体はなくともどうか安らかに……という想いでお参りをしてしまいます。
★総見院 拝観期間(2019年)3月23日~5月19日の期間の土・日・祝日のみ
京都「阿弥陀寺」
秀吉が行なった大徳寺での法要は、信長の死から四ヶ月経っていましたが、それよりも早く供養を行なっていた人物がいます。
それは信長の妹・お市の方と信長の乳母。
そしてもう一人は、織田家や信長と親しくしていた京都「阿弥陀寺」の住職・清玉(せいぎょく)です。
彼の母は産気づいた時に織田家に助けられたといわれ、清玉自身も織田家の世話になりながら育ったといわれています。
そんな清玉は、本能寺の変を知るやいなや、僧たちを連れて現場に駆けつけ、信長らの亡骸(遺骨・遺灰とも)を寺に運び弔ったと伝わっています。事件の混乱の中、本当にそんなことができたのかは分かりません。
ただ、ここに墓が建てられたのは遅くとも七月十一日だといわれているので、本能寺の変から約ひと月前後という早い時期に建立されたことになります。そこに清玉の織田家への想いが感じられるような気がします。
遺骨ではないにしても、もしかしたら信長の遺品か何かが埋められていたのかも……?と想像を膨らませたくなります。
阿弥陀寺での信長の供養は、先ほどの総見院の話と繋がります。秀吉は清玉に、信長の法要の話を持ちかけたそうですが、清玉は政治的なことに利用されると考えてこれを拒絶しました。
そうして秀吉は大徳寺で法要をとりおこなうことになるのですが、秀吉はこのことに腹を立てていたからなのか、清玉の死後、阿弥陀寺を移転縮小してしまったと伝わります。
そんな阿弥陀寺を支援したのは、森蘭丸らで知られる森家だったのだとか。そう考えると、信長の墓の傍らにある森三兄弟のお墓にもこみ上げてくるものがあります。
こうしたエピソードが詰まっている阿弥陀寺は、信長ファンにとって聖地とも呼べる非常に大切な場所です。
今でも六月二日に「信長忌」が行なわれ、普段非公開の本堂や寺宝が公開されているんですよ。
お墓の魅力
信長のお墓にまつわるエピソードはいかがでしたか?お墓はもとはただの石かもしれませんが、そこに「人」が関わることで思い入れの深いものになっていきます。
そこに眠る人物やお墓を建てた人だけでなく、お墓を守る人、そこに参拝した数々の人々……。まさに人々の歴史が詰まったお墓巡り。
皆さんも参拝して思いを馳せてみてくださいね。
参考文献
信長公記、岐阜市歴史博物館「図録 信長」、金子拓「織田信長 不器用すぎた天下人」