先祖もはっきりしない豊臣秀吉
豊臣秀吉が拝領した「五七の桐」紋
日本の歴史上、豊臣秀吉ほど出世を遂げた人物はいません。関白として名実ともに天下人となり、関白を辞したあとは、太閤と呼ばれています。位人臣をきわめた秀吉ですが、実は、出自さえ定かではありません。
江戸時代の大名も、系譜を偽るケースも少なくなかったのですが、そんな場合でも、もとをただせば鎌倉時代の地頭などにいきつくものです。
ところが、秀吉の場合は、まったくといってよいほど、先祖のことはわかりません。
秀吉の伝記についての聞き書きをまとめた江戸時代初期の『太閤素性記』によると、秀吉の父木下弥右衛門は織田信秀の鉄砲足軽だったとしています。
しかし、父弥右衛門は天文12年(1543)に戦死しており、日本に鉄砲が伝わったのも、ちょうどこのころでした。そのようなわけで、秀吉の家が鉄砲足軽だったというのも、到底、信用できません。
そもそも、秀吉の父は「木下」という苗字をもっておらず、秀吉がお禰と結婚してから、その実家の苗字を名乗ることになったとも考えられています。もともと、木下の苗字があったかもしれませんが、いずれにしても、『太閤素性記』では残念ながら秀吉の素性は解明されていません。
そんな秀吉ですが、織田信長に仕えてからはめきめきと頭角をあらわし、丹羽長秀の苗字から「羽」、柴田勝家の苗字から「柴」の字をとって羽柴の苗字を名乗ることになったとされます。
ちなみに、関白となった秀吉は、豊臣の姓を賜っていますが、これは厳密にいえば苗字ではありません。「豊臣」というのは、「源」や「平」のように同族集団を示すもので、朝廷から与えられるものでした。これに対し、苗字は家族集団を示すために名乗ったものであり、朝廷から拝領するものでもありません。
秀吉は、豊臣の姓を拝領したのちも、苗字は羽柴のままでした。
本能寺の変後、競争を勝ち抜く
大坂城内の豊国神社に立つ豊臣秀吉像
氏素性もわからない秀吉が関白になることができたのも、混沌とした戦国時代であればこそです。
これが江戸時代でしたら、固定化された身分制社会のなかで、秀吉が這い上がってくる余地はなかったことでしょう。
それとともに、新参か譜代かを問わずに家臣を登用した主君織田信長が果たした役割も大きいものがありました。
そういう意味からすると、信長には人を見る目があったということなのかもしれません。
明智光秀もまた、織田家譜代の家臣ではなく、中途で取り立てられた新参の家臣でした。
天正10年(1582)の本能寺の変で主君織田信長が明智光秀によって討たれたあと、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を敗死に追い込みます。翌天正11年(1583)には、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、織田家中の争いを克服しました。
すでに、信長の長男信忠は本能寺の変で自害に追い込まれていましたが、三男の信孝も、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に味方したため、秀吉によって自害に追い込まれています。
賤ヶ岳の戦い後に、秀吉が自らの拠点として選んだ場所は大坂でした。大坂は、古来から「なにわ」とよばれており、浪速・浪花・浪華・難波などと漢字で表記されます。
安土城を居城としていた信長も、いずれは大坂に居城を移すつもりであったようです。
大坂に寺内町を構えていた本願寺は、信長と和睦をしてからは大坂を退去していました。
秀吉は、この本願寺の跡地に、大坂城を築いたのでした。
この大坂城は、外壁が黒漆塗りで、金箔を押した瓦が用いられるなど、たいへん絢爛豪華なものだったと伝わっています。
大坂が豊臣政権の本拠地に
大坂城下に移築復元されている秀吉時代の石垣
秀吉は、この大坂城を拠点として、天下統一を進めていきます。
信長の子のうち、徳川家康と結んで最後まで抵抗していた次男の織田信雄を天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで屈服させた秀吉は、さらに、家康・信雄に通じていた信長の家臣佐々成政を降伏させました。
その後、朝廷から関白に任じられた秀吉は、四国の長宗我部元親、九州の島津義久、関東の北条氏政を屈服させ、ついには天下統一を実現させたのです。この天下統一により、100年以上も続いていた戦国の世は終わり、日本に平和が訪れました。
この間、関白の政庁として京都に聚楽第を築いてはいますが、大坂城は武家政権の拠点として機能し続けていたのです。
この後、文禄2年(1593)に子の秀頼が生まれると、秀吉は伏見城に移ります。そして、慶長3年(1598)、病に伏せった秀吉は、そのまま伏見城で薨去しました。享年は62。
死期を悟った秀吉が詠んだとされるのが、次の和歌です。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢
露のように落ちては消えていく死を覚悟しながらも、大坂に政権を築き上げた時代をまるで夢のようだと回想したもので、この和歌が秀吉の辞世となりました。
「いろいろな出来事」を意味する「何は」と、地名の「浪速」をかけており、秀吉にとっては大坂城を居城にしてからの栄華が、人生のすべてのように感じられたのかもしれません。
秀吉の薨去後、わずか6歳の秀頼は大坂城に入り、形式的には秀吉の後継者となりました。秀頼が継いだ豊臣政権がその後も続いていれば、日本の近世は、大坂時代とよばれていたことでしょう。
しかし、いつの時代も、栄華が長く続くことはありません。慶長20年(1615)、大坂の陣で秀頼は徳川家康に滅ぼされ、豊臣家は滅亡してしまいました。
秀吉が生涯をかけて築き上げた大坂城は、江戸幕府によって埋められ、その上に、新たな大坂城が築かれました。つまり、秀吉の栄華は今でも「夢のまた夢」として、現在の大坂城の地下に眠っているのです。