銭湯のルーツとは… お寺から始まった!
東大寺には「東大寺大湯屋」として国の重要文化財にも指定されている
6世紀にまで遡ります。
日本に仏教が伝来したとき、僧侶たちが身を清めるために寺院に浴堂が設置されました。
仏教では、「入浴は七病を除き、七福を得る」「汚れを落とすことは仏に仕える物の大切な仕事」とされてきました。
そのため、体を洗い清めるための浴堂が寺院に作られました。僧侶だけでなく、貧しい人々や病人、囚人らにも積極的に開放していました。
床下から蒸気をあげる蒸し風呂タイプから、釜でお湯を沸かし、体を清める掛かり湯、そして湯船に浸かるものへと進化しました。
奈良の大仏さまで有名な東大寺は、掛かり湯タイプとして最古と言われており、現存しています。
ちなみに、蒸し風呂の床に座る際に敷いた布が「風呂敷」で、その後、風呂の着替えをくるんで持ち歩くようになり、今の風呂敷の用途へと変化していったそうです。
鎌倉時代になると、寺での奉仕の後の汗を流す場として風呂を用意。
湯船に浸かるとついもらしてしまう「あー極楽極楽」は、そんな寺での入浴の名残とも言われています。
やがて、浴堂だけでは大勢の人を入浴させられなくなり、境内に大湯屋と呼ばれる浴場が設けられました。
庶民はお布施を置くようになり、それが、入浴料となり、風呂に入るために金銭を支払う「銭湯」の習慣ができました。
東京(江戸)の最初の銭湯は?
唐破風屋根の緑湯(2015年閉店)
1591年、今の千代田区大手町あたりだと言われています。
江戸城と町を築くために全国から人が集まりました。
城下町の建設に集まった人を相手に風呂屋を開業。しかし、当時は水も高価で貴重なもの。
そのため、蒸し風呂が主流でした。
銭湯ができた当時は混浴が当たり前で、江戸時代中ごろまで、入浴のときは男も女も衣服を身にまとっていました。
混浴を禁止したくても、男湯と女湯を作るには燃料も水も倍の量が必要。
男女の入浴時間や入浴日を分ける方法をとったりしました。
1890(明治23)年になり、7歳以上の男女混浴が禁止となりました。
現在は10歳以上の男女混浴が禁止されています。
東京の銭湯の特徴
タイル絵が美しい堀田湯
銭湯といえば富士山のペンキ絵を思い浮かべる人は多いでしょうが、これは1912(大正元)年に、神田円楽町にあったキカイ湯の主人が画家に壁画を依頼したのがはじまり。
じつは、これは関東地方の銭湯特有のもの。
私が子供のころ(昭和50年代)に通っていた愛媛県の銭湯は、中央に湯船があり、壁側に洗い場が配置されていたので、ペンキ絵はありませんでした。
また、寺社建築のような外観の銭湯も。
これは1923(大正12)年の関東大震災後、東京で宮型造りが銭湯の様式といて採用されたから。
切り妻のむくり屋根の先に曲線を連ねた唐破風(からはふ)屋根が正面につく建築形式を「宮型」のひとつです。
1968(昭和43)年、都内には戦後最高の2687軒ありました。
その後、各家庭に風呂が設置されるようになり、現在、東京都内には約500軒、足立区内は31軒(2019年7月1日時点)と、いまや貴重な存在となっています。
銭湯を利用する用途は昔と今とでは変わっていますが、この日本古来からある風習を大切に守っていきたいですね。
(銭湯といえば足立 川辺志麻)