【マダム路子・自分史(第1話)】~あの日、あのとき、あの笑顔~ 7月7日に生まれて

78歳の6月に、21回目の引っ越しをした。   港区に聳えたつ高層ビルの12階のテラスから朝焼けや、金色に輝く大きな太陽が静かに沈んでいくのを眺めるのが好きだった。 渡り鳥が隊列を崩さず整列し、赤い夕陽の中を旋回しながら飛んで行く様は、神が創造した巨大なキャンパスの上に描かれた絵のようだ。   突如爆音が響き、着陸態勢となったボーイングが低空飛行で羽田空港へと、雲間を切り裂くように通り過ぎて行く。
2019/07/11

渡り鳥が隊列を崩さず整列し、

赤い夕陽の中を旋回しながら飛んで行く様は、神が創造した巨大なキャンパスの上に描かれた絵のようだ。

 

突如爆音が響き、着陸態勢となったボーイングが低空飛行で羽田空港へと、雲間を切り裂くように通り過ぎて行く。

あの日。家中がガタガタと揺れて、

私は跳ねるように布団の上に座った。

 

眠気で目があかない。

 

家の中は静寂なのだが外の騒ぎがけたたましく耳をつんざいた。

 

私の眠気は吹っ飛び6畳の部屋を見回したが母も、兄もいない。

 

私は裸足で玄関先に飛び出すと、母は2歳の弟をおぶい、8歳の兄を乳母車に乗せ立っていた。

 

私は泣きながら母の足にしがみついた。

 

「ああ、路子起きたのね。運動靴をはきなさい」と母は言った。

 

私は、もう一度玄関に戻ると追いて行かれると感じ、恐怖感で「いやいや」と首を振った。

 

この時から2時間前にも空襲警報が鳴り、空には爆音が響き渡り近所の人たちが総出で、防空壕に退避したのだ。

 

しかし、しばらくすると爆音は遠のき、非難した人々はそれぞれ家に帰り寝ついたのだ。

 

それから2時間もしないうちに爆音が響き、ほんの僅かの時間、「今度も脅かすだけなのか」を判断していたのだ。

私は震えながら空を見上げると、隊列を組んだ戦闘機が通過した。

 

ほぼ同時に大きな爆音と共に火柱が上がり、一種のリズムを持ちながら空爆が繰り返されて行く。

 

暗い夜空が真昼のように明るくなり、ほんの一瞬だが私は「大きな花火みたいで奇麗」と思った。

 

「路子も乳母車に乗りなさい!」

 

運動靴を履かない私に母が厳しい顔をして言った。

 

8歳の兄は3歳の時から重症の脳性小児麻痺に罹患していたので乳母車に乗せられていたのだ。

 

だから乳母車といってもかなり大きなサイズだった。

 

私は、乳母車の右端のふちに座り兄を見た。

 

兄はいつものように半泣きの表情だが、特別恐怖を感じているわけではないのだろう。

 

前に座る私に茫洋とした視線を投げるだけだった。

富山にて

「あんたねえ、右は不二越の軍需工場だよ、左の日赤病院の方に行きなさいよ」

 

「親戚のお倉があるこちらに行きます」

 

「みんな右に動いているのに、あんただけ乳母車で反対に行こうとすると邪魔になるんだよ、乳母車からおろしなさい」

 

「この子は小児麻痺で歩けないから乳母車に乗せているんです」

 

町内会の避難訓練を指導しているおじさんと母の会話だ。

 

当時は少年も、中年でも病気がなければ兵役にとられ、町には老人と女たちと子供ばかりだった。

 

避難訓練指導のおじさんがどんな理由で従軍しないのか知らなかったが、横柄な態度が鼻につく偉そうな人だ。

 

常に「鬼畜米英」を唱え「玉砕覚悟で最後まで戦え」といって、防火水槽から水を汲み戦火を消すためのバケツリレ―訓練。

 

そして竹槍で必殺技の練習を女子供に教えていた。そんなもの、いざとなれば役に立たないことをそのとき5歳だった私は知っていた。

 

「とにかく乳母車から子供をおろして左に行きなさい」
「子供を殺せと言うんですか」

 

あの時の冷静で、自分の意志を通す母の子供を守る叫び。

今も忘れられない。

 

その後はおじさんの声も多くの人々の阿鼻叫喚に消され、聞こえなくなった。

 

右に向おうとする子供を二人乗せた乳母車は人並に逆らっているので、なかなか前進できない。

 

13歳の兄(栄)も、必死に乳母車を押してくれていた。

 

やっとのことで人並から脱出すると田んぼの畔道に出た。

盛大な花火のような炎が遠くに見えていたが、いつの間にか爆音は消えていた。

黙々と進む道の真ん中で布団をかぶった人がよろよろと歩いてくる。

 

どちらかが脇によらないとぶつかると思った瞬間、顔の見えないその人は、田んぼの中に倒れ込みそのまま、動かなくなってしまった。

 

夜が明けはじめ、何事もなかったように真夏の白い空がひろがっている。

 

いつの間にか田んぼのあぜ道からコンクリートの道になっていた。

 

左側の道の脇を見て驚いた。電信柱がなぎ倒され、電線が黒い蛇のようにとぐろ巻き散乱していた。

 

「路子、乳母車からおりなさい」

 

母が言うのは当然だった、乳母車のゴムが焼けて鉄が丸出しになりそこに電線がからみついてしまい、まったく動かなくなっていたのだ。

 

「でも、おかあちゃん、私、運動靴はいていないもん」

「栄、靴下を脱いで路子に貸しなさい」

兄が靴下を脱ぎ私に渡した。私は泣きべそをかきながら兄の靴下を履いた。

 

13歳の男子の靴下を5歳の女の子が履いたのだ。

 

どうにも大きくておさまりがつかないが、私は意を決心して乳母車を降りた。

「熱い!」

地面が熱くただれていて飛び上がるほどの衝撃が足裏に走った。

 

しかし、もう乳母車には乗れない。母が右にある側溝に足をつけなさいと言った。

 

私はできるだけ地面に足をつけないように側溝に走って行った。

 

側溝の泥水に足をつけたら、これがまた熱湯状態になっていたのだ。

 

熱さをこらえ、母と兄の元へ戻ろうとした瞬間、側溝に沿って建つお倉が、空爆を受けてもすぐには炎上せず、畳ほどの大きな炎をふんわりと次々に繰り出していた。

 

炎は上に飛んでいたので、私は本能的に小さくかがんだ。

 

ここにいつまでもいたら火炎に包みこまれてしまうかもしれない。

 

火がお倉全体を焼き尽くせばお倉の下敷きになると思い一刻も早く母や兄の姿を前方に探したが、白煙が陽炎のように立ち込め姿が見えない。

 

死と紙一重の戦火の現場で白煙に包まれ、足の熱さも忘れてただひとり歩いた。

 

1945年の8月1日から2日の事だった。