【マダム路子・自分史(第3話)】死線を乗り越えた、疎開先の富山。

2018年7月7日。 マリオット東武銀座ホテルで私の79歳の誕生パーティーを祝ってもらった。   この日、濱畠 太氏と伊藤守男氏から、この自分史『~あの日、あのとき、あの笑顔~「7月7日に生まれて」』を、メディアに向けてリリースしたことを発表下さった。
2019/08/01

79歳を迎え、

こうした華やかな場所に無事に立っていられるのは、5歳のあのときに空爆の下で、生と死の境のような1日を乗り越えられたからだ。今も時々白煙の中にひとり取り残された時の恐怖を夢に見ることがある。

1945年8月1日~2日にかけて、

疎開先の富山県でB29機による激しい空爆を受け、白煙の中を逃げ惑ううちに母と兄弟3人とはぐれてしまった。

 

私は、兄の靴下を履き側溝の脇に立つ倉が焼け落ちる前に、畳ほどの大きさの火炎に、巻き込まれないように腰をかがめ前進した。

 

赤い火炎に気をとられているうちに、あたりはいつしか白煙に包まれていた。火炎から逃れ、はっと我に返った私は、前方を歩いているはずの母たちの姿を探したが、周囲全体が白煙に包まれ視界が遮られていた。

 

母の姿も、兄の姿も見えない。火炎の下をくぐりながら歩いていた時は、恐怖心も沸かず、ひたすら前進していたのだが、自分がひとり「取り残された」と意識した途端に、震えるような怖さが全身を襲ってきた。

 

「お母ちゃん!」声高に叫ぼうと思っても、喉が渇き殆ど声が出ない。

 

「お母ちゃん!」と泣きながら口ごもり、つんのめるように歩く。

 

空爆や悪魔のような火炎より、白煙の中にひとり残された恐怖は、5歳の子にとっては極まれるほど強く、孤独感に負けて今にも倒れそうになった。

 

その時だった。

 

「ああ、路子、路子がいたわ!早くいらっしゃい、こっちよ」。

 

恐怖の中、探し求めていた母の声だ。ここまで何分、何時間が経っていたのだろう。

 

気が付くと勢いの弱まった白煙。

 

そのおかげで母や兄弟の姿が眼前に浮かび上がった。

 

私は、泥々になった兄のブカブカ靴下を引きずりながら母にかけより、母の足にしがみついた。

 

「お母ちゃん、怖い、怖い」と、枯れた喉で出せるだけの声で訴えた。

 

ようやく親子3人が揃い安堵すると同時に、空腹と喉の渇きが襲ってきた。

 

母は兄が背負える大きさのリュックに避難用の食料(乾パン)や下着などを詰めて用意していたのだが、爆撃の瞬間に飛びだしたためリュックを置き忘れていた。

 

まさに、「着のみ着のまま」で飛びだしたのだった。

1945年(昭和20年)8月1日から2日にかけての各地の空襲を報じる『朝日新聞』(大阪版)

周囲を見回したが私たち家族の他には誰もいない。

目指している伯父の所有するお倉の姿はまだまだ先にあり、見えてさえこない。親子は黙々と前進していく。

 

「あんね(娘さん)ちゃちゃかと(早く)こられ」と、富山弁のおばさんの声が聞こえた。

 

私たち親子は思わず周囲を見回した。「こっちゃこられ」声の主は右側の少し広く空いた場所からだ。

 

そこにおばさん3人が立って手招きをしていた。

 

おばさんたちの前には、戸板をテーブル代わりにした上に、やかんと湯呑茶碗が置かれ、まばゆいような白米の大きなおにぎりとタクアンが置かれていた。

 

突然現れたおばさんたちに驚いたが、私たち親子はテーブルの前に歩み寄った。

 

そのときに母や兄がおばさんたちと、どんな会話を交わしたかは記憶にはない。

 

おばさんたちは空爆の対象にならなかった村の人たちで、避難してくる人たちのために、お茶や飲み水、おにぎりを用意して待ってくれていたのだ。

私はまず、思い切りお水を飲んだ。

そして掌に乗せられたおにぎり。

 

こんな真っ白な白米のおにぎりなど、何年ぶりのことだろう。

 

当時は食料も配給。

 

その配給も家族のお腹を満たすだけの量はもらえない。

 

麦を混ぜられる頃はまだ良かったが、それらも無くなってくる頃はサツマイモが主で、そこに米粒が付く程になっていった。

 

さらに、おかゆもひどいときには米粒など見えない「重湯」みたいなものしか食べられない生活状況だった。

 

餓死や栄養失調で亡くなる人も珍しくない時代だった。

 

私はおにぎりに齧りつき飲みこもうとしたが、喉がつかえて飲み込めず咳き込んだ。

 

おばさんのひとりが「こんな、小さい子がなあ、、」と私の背中をさすってくれた。

 

掌に乗せたおにぎりをじっと眺め、おばさんの顔を見上げた。「早く食べられよ」おばさんの言葉に大きくうなずきながら、なおも私は掌を眺めているうちに、涙が流れてきた。

それにしても、激しい空爆時にかかわらず、

一時的とはいえ親切な方が手を差し伸べようとしているのに、なぜ私たち以外の人たちがいないのだろうか。

 

その理由を後で知ることになり、今回もこのときの状況を調べて知った情報に慄然とした。

 

ひとり一殺を唱え、竹槍訓練、防火水槽から汲み上げバケツに入れた水をリㇾ―して消化に励むことを奨励した町内会のおじさんが左の病院側に逃げろと人々を誘導。

 

そちらに逃げた人たちを含み県下約3000人が死亡したという記録が残っている。

 

アメリカ軍の戦略が町の殲滅作戦だったから、人が逃げ込む方を攻撃すると最初から決められ、軍需工場は最初から攻撃対象に入っていなかった。

 

図らずも、私たちは爆撃が約束されたような、軍需工場のある側に逃げたことで助かったのだ。

 

おばさんたちの行動は、現在で言うところのボランティアの方たちだった。

 

子供心にもこんな危険な状況時に、避難してくる人の苦難を少しの間でも休憩させ、空腹を満たしてあげようと行動する無私の愛。

 

死線を乗り越え、あの日、あのとき、あの笑顔に出会い、 九死に一生を得た私は分けもなく感極まって泣いたのだと思う。

 

この時の光景は今も忘れられない。忘れてはいけないと思っているくらい大切な記憶、自分史の一片である。

水分を取り、おにぎりを食し、少し休んだ。

多少元気を回復した私たちは、再び伯父のお倉を目指し歩きはじめた。

 

やがて、珍しく目先に何人者の人たちが一列に並びバケツリㇾ―をしている情景に出会った。

 

リㇾ―の先を見ると、伯父のお倉だった。

 

お倉の2階部分からモクモクと黒煙が噴き出していた。列をなしてバケツリレーで火元を止めようと消火作業をしていたのだ。

 

列をなしてバケツリレーをしていた人たちは親戚の人たちで、私たちの無事を喜んでくれた。

 

空からの直撃にバケツリレーは役立たずだが、お倉の消化には効果があると思った。

 

兄と私はすぐにバケツリレーに参加した。

 

何だか体の中から言い知れぬ力が湧いてくるのを感じた。

 

それは、死線を乗り越えたという大きな経験がもたらす「成長」か、また我が身へのエールだったのだろうか。

富山大空襲(Wikipedia) 1945年(昭和20年)8月1日から8月2日にかけてアメリカ軍が富山県の富山市に対して行った空襲である。軍需工場ではなく市街地に対して空襲が行われ、広島、長崎への原子爆弾投下を除く地方都市への空襲としては最も被害が大きかった。
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