【マダム路子・自分史(第4話)】「戦後」という時代の始まり。

8月6日にプロゴルフツアー、全英女子オープンで日本女子2人目のメジャ―制覇の偉業を成し遂げた渋野日向子(20歳)選手。日本ゴルフ界初の金メダル獲得への期待が、日本のみならず世界から期待され渋野選手の笑顔と東京金の文字がメディアのあちこちで見られる。喜ばしいことだ。
2019/08/15

私はこの文章を書くために

沖縄や長崎の戦跡の資料を読み込んでいた。

 

その中で知る新たな事柄が、あの日、あのときの修羅場につながっていく。

 

頭がくらくらする。頭を冷やそうとテレビに目をやった。

 

ガーン!

 

小泉進次郎氏と滝川クリステルさんの結婚!!!

 

この報道の瞬間からカップルの誕生に沸きに沸く。

 

びっくりしたが、私も国民のひとりとして心から祝福する気持ちだ。

 

それにしても、8月6日の広島原爆投下の日の翌日の7日。

 

1日おいて、長崎原爆の投下の9日をはさんでの「結婚の発表」には何か意図があるのだろうか。

 

評論家の方いわく、すでに滝川クリステルさんは妊娠五ヶ月。

 

なので、メディアにリークされないうちにと8月7日の発表になった。

 

というのが理由らしいとの事だ。

 

渋野日向子選手の笑顔、小泉進次郎氏と滝川クリステルさんお二人の笑顔。

 

令和という新時代をリードーしてくれる超魅力人に期待をかけたい。

74年前の8月1日。

富山大空襲(Wikipedia) 1945年(昭和20年)8月1日から8月2日にかけてアメリカ軍が富山県の富山市に対して行った空襲である。軍需工場ではなく市街地に対して空襲が行われ、広島、長崎への原子爆弾投下を除く地方都市への空襲としては最も被害が大きかった。
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東京日本橋から富山県富山市に疎開。激烈なB29の爆弾の下をくぐり抜けた。

 

母と3人の兄弟と私たちは、ようやく目指して歩いてきた父方の伯父の所蔵するお倉についた。

 

倉の中から吐き出される煙を、私も加わりバケツリレーで消し止めた。

 

その日はようやく横になって眠ることができた。

 

何人いたのか正確には覚えていないが、倉の中は2階も1階も足の踏み場がないほどの人でぎっしりと一杯だった。

 

換気の役目が目的なのか碁盤の目のように空間のある板敷きの上に寝かされた。

 

私が寝かされたのは2階だった。

 

明け方近く、夜中に階下から「なんだいね、この水は」と声があがったらしい。

 

母がその声に目をさまし、私の腰のあたりをさわった。

 

ぐっすり眠りこけていた私がオネショをしていたのだ。

 

母は濡れた布を丸め、他の反物を敷き、私の頭をなで、詫びを入れるため下におりた。

【8月1日の空襲で炎上する富山市街】By USAAF Photographer - https://www.theatlantic.com/photo/2011/10/world-war-ii-the-fall-of-imperial-japan/100175/, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=77198456

空爆による襲撃はないが油断はできない。

新聞もない、ラジオも通じず戦況がまったく判らない。

 

何とか命を取り留めてここまで避難してきたが、この先どうしたら良いのか、誰にも判断がつかない。

 

重く暗い空気。

 

 気を取り直し、大人たちは預けていた品物をそれぞれ点検したり、掃除をしたり、食事の支度をしていた。

 

母が預けていたのは和服がほとんどだった。

 

それらを広げてみると、友禅柄にべったりと煙の煤が覆い、美しい模様は消えていた。

 

疲れきった母や他の大人たちは気力を奮い立たせるように働いていた。

 

私は黙ってお倉から外に出た。お倉の前の石段に立った私は眼前に広がる風景に愕然とし、息を呑んだ。

 

家も電信柱も何も無い、無味乾燥な風景が広く果てしなく続いていた。

 

立ち並んでいたお倉も残っているのは僅かだった。

 

そんな風景の中を大人たちが焼け焦げた地面や棒や石であちこちを叩いたり掘り返していた。

 

戦中は庭や空き地に生活用品を埋めるのが常識だった。

 

様々な生活用品が吹き飛ばされ黒い残骸が積もっていた。

 

たとえば茶碗類や乾燥食品、もしかしたら裕福な家はお金なんかも埋めていたかもしれない。

 

空爆が、静まってはいても戦争が終わったとは誰もが微塵も思っていなかったが、生き残った以上、まず欲しいのは食料だ。

焼野原の地中に、口に入れられる何かが埋まっていないかと、

私も焼け焦げた棒を拾い地面をたたきながら黒色の地をかけまわった。

 

ふと、なにか柔らかい感触を太ももに感じた。

 

振り返るとこんもりと何かが積みあげられてむしろがかけられていた。

 

米俵を積み上げたような形態だが、もう少し横に長い。

 

私は、強い好奇心にかられ、むしろをまくると、子供の目にも明らかにわかるほど、ふくらはぎから足先が浮腫んだ「人の足」だった。

 

私はさして驚かなかった。

 

なぜかと言えばお倉にたどり着くまでの田んぼの中で、爆撃を浴びた人たちが川の中に飛び込み、折り重なるようにして亡くなっている光景を目にしてきたからだ。

 

何かにつけて泣き虫で母のあとばかりを追い、5歳になってもまだおねしょをしてしまう幼い私だったが、喜怒哀楽の感情がすでに枯渇していたのだろうか。

 

私はむしろを再びかぶせるとまた、黒い地面を叩きながら歩きまわった。

 

すると黒色には変わりないが、地面の黒さとは違う光る黒さを感じる何かが棒に当たった。

 

それは完全な四角形をしていた。

 

私は表面を手でこすった。

 

そしておそるおそる舐めてみた。

 

「甘い!」夢中になってこすってはなめた。

 

甘いものを口にするなんて忘れてしまうくらい久しぶりだった。

 

私はお倉に飛んで帰り大人たちに知らせた。

「水飴の缶をみつけたよ」

倉にいた全員が、興奮して叫ぶ私の言葉を半信半疑の顔をして聞いていたが、「甘いよ。舐めてみたんだから」でも、自分では運べないと必死に言うとみんなで現場へと走り出した。

 

それは一斗缶に詰められ地中に保管されていた。

 

様々な飴の原料にする水飴に間違い無かった。

 

しかし、爆撃によって地中にかっちり埋められた一斗缶は取り出せない。

 

仕方がないので、力任せに石で叩きみんなで舐めた。

 

「路子ちゃん、よくみつけたなあ」と大人たちは褒めてくれた。

 

緊急事態の中でおねしょの不始末をした私は子供心に恥ずかしく情けなかった。

 

だが、こうして水飴の缶を発掘したおかげで、みんなに感謝された。

 

缶の持ち主は出てこなかった。

 

こうして助けてくれたことを感謝して缶のまわりで手を合わせた事も記憶に残っている。

 

お倉に避難していた人たちも、それぞれの遠戚を頼ったりして少しずつ別れを告げていった。

 

お倉に母方の叔母たちが来てくれ、当座の食料を置いていってくれたりしたが、いつまでもここにはいられない。

 

そんなある日、日課となった焼土の地面をたたきながら走り回っていると、二人の男性が立っているの見つけた。

 

私は二人を見た。

 

二人も私の方をじっと見ている。

母と、世話になった叔母

「おとうちゃん、あんちゃん!」

「路子!」

 

私は夢中になって駆け出した。

 

だが父も兄もこちらに走り寄ってこない。

 

父と兄はまず私たちが住んでいた家に行ったが跡かたもない。

 

お倉の存在は知っていたので辿り着いた。

 

東京の家も焼け落ちて、東京から汽車に乗るまでの経緯は筆舌に尽くしがたい困難で、この場所に着いたときには私に走りよるエネルギーも残っていなかったらしい。

 

こうして、私たちは両親と子供たち5人が同じ富山県に集まることができた。

 

まだ、戦争は終わったわけではない。

 

これからどうすれば良いのか。

 

そんな私たちに助け船を出してくれたのが母の妹の叔母。

 

叔母夫婦の好意に甘え、私たちは富山県富山市の“小中”という地域にある家に移った。

 

そこには戦争にさらされている土地とは思えないほど牧歌的で、自然栽培の野菜もたくさんあった。

 

私たちはようやく人心地がつき、お互いの情報を交わし合った。各地の戦況も思わしくないらしいがまだ「総玉砕」とか「生きて恥をさらすな」とか言ったこともラジオから流れているらしい。

2週間ほど過ぎた8月15日。

8月15日午前中に配布された玉音放送予告の特報(朝日新聞)

座敷に両親や叔父叔母が集まり、ラジオの前で正座し深く頭をたれていた。

 

私も座敷の一番後ろに座っていたが天皇陛下のお言葉の意味はわからなかった。

 

しばらくの重い沈黙。やがて父の嗚咽に続き叔父や叔母たちの腹の底から絞りだすような泣き声が座敷一杯にひろがった。

 

敗戦という結果でこの戦争は終わった。

 

もう空爆に怯える事もない。

 

しかし、戦時中にも劣らないくらいの苦難が、私たち日本人に課せられる。

 

「終戦」は、「戦後時代」の幕開けでしかないのだ。

祖母(中央)と母のきょうだい、6人。母は右の長男の後ろ。左は富山市小中の叔母。