私が「素肌美」のあり方に深くこだわるには深い理由があります。
恐ろしい出来事が起こったのは戦時中、疎開先の富山県に間借りをしていた家でのことでした。
東京の父からオモチャのセルロイド製の洗面器が送られてきました。
子供の遊ぶおもちゃなど滅多に手に入らないあの当時です。
2歳の弟はとても嬉しがり、セルロイドの洗面器を振り回して遊んでいましたそんな日々が数日過ぎたある夕刻のとき。
「すぐにご飯だから、お餅は食べたらダメよ!!」と、
母は私にきつく注意して、階下に食事の支度に下りていきました。
部屋の隅に鎮座する袋入りのお餅に、私の食欲、目も心も吸い寄せられていきました。
空腹に勝てなくなり、我慢の限界を超え私は、母の注意を無視して叱られるのを承知で、お餅を弟の分と二つだけ取り出し、火種が消えた灰だけの七輪に、網を乗せたのです。
七輪の縁に手が触れても全く熱くありません。お餅は焼けないと思いながらも、少し待ってみます。
それを見た弟が、網を外し、七輪の上に父から届いたセルロイドの洗面器を乗せました。
私はセルロイドの危険性を察知したわけではなく、単に、お餅を焼くのに邪魔だからと洗面器を振り払いました。
自分で網を外してはセルロイドの洗面器をのせる弟。
洗面器は七輪にピタリとおさまります。
それを取ろうとすると、弟は私の手を払い、同じ行動を繰り返します。
仕方がないので、そのままにして、私はまだ焼けていないお餅をかじろうとしました。
弟は七輪からセルロイドを取り上げたのです。その瞬間!弱い火種ながら洗面器の発火点に達した洗面器が炎上したのです。
ギャ!と叫ぶ弟!
しかし、手に持ったセルロイドを手から離せません。
炎が弟の左頬をなめるように焼きながら、炎は「火柱」となりまっすぐに上へ上へと立ち昇っていきました。
私は驚愕し壁際まで後ずさりし、「お母ちゃん」と階下の母に向かい助けの声を絞りだすように出しましたが、恐怖のあまり立ち上がることもできません。
私の声より、泣き叫ぶ弟の声を聴いて母は階段をかけ登ってきたのでしょう。
私は自分が動転し壁際で身動きが出来なくなったことは鮮明に覚えているのですが、母がどう火を消し、弟をどのように扱ったのかは覚えていません。
富山市は歴史に残るほど豪雪の年でした。
外に出るには二階の窓からという極寒の日。
弟は右頬と手に包帯を巻かれ、日夜泣き続けていました。
母は弟をおぶい私の手を引き、近くの神社へ毎日お参りに行きました。
私は弟の泣き声を聞いているうちに「可哀そう」と、胸が締め付けられ、いつしか一緒に泣いていました。
汽車の切符を手に入れるのも困難な状況でしたが、母の打った電報の知らせに父が東京からかけつけました。
弟の事故は自分が送ったセルロイドの洗面器が原因と知ると、父は弟を抱き「お父ちゃんが送らなければ」と号泣しました。
母は、私の不注意だったと泣き崩くずれ父に頭を下げていました。
両親は、弟に大火傷を負わせたのは互いに自分のせいだと言い嘆きました。
弟と身近にいて、母にお餅は焼いてはだめよと言われたのに守らなかった私も泣いて謝りました。
しかし両親は一言も私を責めませんでした。父がそのとき言った言葉は「路子でなくて良かった」でした。
父の思いには女子の私が、右頬反面が焼けただれ、右手の小指と薬指が癒着し、手の甲に火傷跡があったら「お嫁に行かせることができない」と思ったのだと推察できます。
また、安全だと思い疎開をさせたはずが、空爆下で怯えて暮らすひとり娘に、これ以上心の負担を増やしたくないという「思いやり」の側面もあったのでしょう。
両親が言った「路子でなくて良かった」という言葉にほっとしながらも、ひどいやけどを負わせた悔恨・・・・・・。
私の変わりに火傷で不幸を背負った弟。
弟の額の白い部分がやけど痕です
真の罪人は【私】であることを決して忘れてはいけないと幼心に誓ったのです。
終戦を迎える前に大火傷を負った弟を、両親は富山県から石川県の金澤大学病院に入院させました。
あるとき。母はおらず、父が食事の支度をしていました。
食料も簡単には手に入らない時です。
当時は自分の食べる分は自分で用意しなければ宿泊も入院も受け入れられません。
父は病室の片隅で大根の実と葉を細かく刻み、少しの玄米を入れておかゆを作ってくれて、3人で食べました。
そのときの火力はやはり七輪でした。
あの時の背中を丸めた父の後ろ姿は鮮明に覚えています。
この事故後、兄2人と私と弟が空爆を受けたのです。
その後、埼玉県蓮田市での生活がはじまり、小児麻痺の3男が亡くなり、母は難病で倒れ寝たきりの生活。
ようやく6歳になった私は赤ん坊の末弟をおぶい、火傷をした弟の手を引き神社で遊んだり田んぼのあぜ道を散歩したりしました。
そんなとき、竹の棒を持った村の子供たちが竹の棒を持ち「東京っ子!東京っ子!」と詰め寄ってくるのです。
それも男の子数人から十人ぐらいの集団ではやしたてるのです。
あるとき、私がひとりで歩いていると、例によって囃し立てる子供たちに腹が立ち「あかんべえ~」をすると全員が追っかけてきたので逆方向に走りました。
私は後に小学生時代から高校3年までリレーの選手になるくらいの俊足でした。
空腹ではありましたが、こんなクソ意地悪い男子たちに負けてたまるかと必死に全速力で逃げました。
とは言っても敵は大勢でひとりが遅れても、次が出てきてしつこく追いかけてくるのです。
もうダメかと思ったそのとき、眼前に夏みかんだったでしょうか。
黄色い実がついた樹が目に入ってきたのです。
私はそれに飛びつき、登り始めました。男子たちも次々に登ろうとしてきました。
私は木の上でふと、良いことを考え付きます。
夏みかんの実をもぎとり男子めがけてぶつけました。
見事に命中、私は一番高いところまでよじのぼり夏みかんを飛ばしたのです。
子供たちにとっては私が駆け上った木は、かりの腕白でも怖い高さ。
女子の私が登りきれたのは、強い“決意”があったからです。
東京っ子といじめられたくらいで負けない!
二人の弟を守らなきゃならい!
私は空爆にも負けなかった!
私の凄まじい勢いとキツイ表情の強さに悪童たちはたじろいたのでしょうか。
何回も大木のてっぺんにいる私を睨みながら見上げて退散していきました。
この後も、まだ苛烈な「東京っ子イジメ」はしつこく続き、
ついに瓦屋の広い敷地内で決戦する事になるのです。