病気に対する畏敬の念
私は『こんな女がビューティスペシャリストで成功をする』(二十一世紀ブックス)という本を上梓したことがありました。
そのために一五人ほどの、成功を勝ち取り〝自分を生かし人も動かす〟魅力的な熟女のキャリアウーマンたちにインタビューをしました。
私が取材をさせてもらったときには、元気溌剌な彼女たちでした。
しかし意外なことに、ほぼ一五人すべての女性たちは、果敢な仕事の闘いのプロセスの中で、過去において一度は大病に倒れた経験を持っていたのです。
そんな話を聞き我が身を振り返り、私が大病に見舞われなかったことは案外珍しいと感じて、いままで元気でこられたことを、両親の位牌と天に向かい、改めて感謝しました。
もちろん女性だけではありません。実年世代の男性たちとなると、なにかしら持病を抱えたり入院した経験のある人が、年齢が上がるほどに多くなる傾向があります。
これは老化も含めて人間の肉体の宿命かもしれませんが、最近では老化というにはほど遠い十代・二十代の若者たちにさえ、成人病が早く表れる傾向が増えています。
成人病の代表に〝糖尿病〟がありますが、こうした成人の病気が、まだ小学生の子供たちにまで早くから発症するケースも増えているのです。
健康ブームといわれて久しいですが、ますます健康障害が広がっているのが現代です。
医学も日進月歩しますが、それを嘲笑うかの如く原因も治療法もない、恐ろしい現代病が誕生してきています。
さて、病気をしない私は、親から健康な遺伝子を譲り受けた、ビンビンの健康体質に、生まれついているのかということになりますが、脆弱ではないにせよ、すこぶる健康なタイプというわけではありません。
私の人生は、自ら求めたこととは言いながら、かなり波乱万丈で、苦労と心労を背負い込み、多忙な生活と時間の闘いの中であくせく、ドタバタと暮らすのが常態です。
肉体条件は、上が一〇〇を超えたことのない(現在も同じ)低血圧と、万年睡眠不足で偏頭痛持ち、胃下垂、夏をも辞さぬ超のつく冷え症、若いときからあちこちに転移する神経痛持ちです。
それでも、あっちが痛いここが辛いと始終文句はタレ流してはいますが、大病もせず、七十七歳の喜寿を越えてもかなりの激務をこなせるのは、結局、私が病気に対する畏敬の念を脳内に幼いときから持ち続けて生きてきたからだと考えています。
心と体の調和
私がハチャメチャな人生を送りながら、病気で倒れることを恐れ、しかも病気を巧く手なずけ、やり過ごし、それなりに健康を保っていられるのには訳がありました。
戦後に母は三五歳の若さで、産後に難治性の全身リュウマチに冒され、寝たきりになりました。
父は戦地で患ったマラリアの後遺症の肝炎に苦しみました。
三男の兄は、脳性マヒにより一二歳で亡くなりました。弟は僅か一年三ヶ月で母にリュウマチという病を置き土産に、可愛い盛りに家族の前から消えてしまいました。
兄、弟と毎年葬式を出し、次は誰が仏様に呼ばれるのか、家族のすべてが恐怖心を持っているときに、私もまた、現在はあまり聞かれなくなった、百日咳という、一種の喘息のような咳が止まらず、高熱が続き、死の淵をさ迷うという壮絶な経験をしました。
残された四人の子供の母親が、身動きのできない病気であり、女のコは、私ひとりの一家には、重苦しい現実でした。私個人でいえば、幼いながら家事の手伝いの重圧、母に甘えることができない寂しさ。
誰もが母親が出向くPTAに、私ひとりだけは、父親がくる恥ずかしさなど、どれだけ、母が病気でない友人を羨んだことでしょうか。
母自身も、子供二人に先立たれ、自分も身動きができないくらいなら、いっそ死にたいと口にする時期もありました。
そう言って嘆く母を見ていると、私の胸は不安で一杯になり、「お母ちゃんがいなくなるなんて絶対にだめだ。どんなにひどい病気でも死なないで欲しい」と思い、家事や看病に明け暮れ、あまり自由のない生活にも耐えたのです。
当大学病院で、母の病気の診断結果は、体中のあらゆる関節が冒されて(今ではウィルスと判明していますが)激越な痛み、高熱が続きやがて関節が折れ曲がり変形していく、〝重症の関節リュウマチ〟でした。最後は心臓が冒され死にいたるが、その時期は確定できないということだったのです。
その診断が正しいであろうことは、事実が物語っていました。
母の状態は薬によって熱は引くようになりましたが、昼も夜も呻くような痛みに苛まれ、ようやく、その状態が落ち着くと、指の第一関節と第二関節が〝くの字型〟に曲がっていくのです。
それでやや落ち着くと次が手首、肘へと痛みが移っていくのです。
父が話さなくても母は自分の病を察していました。覚悟もしていたようです。
だから父が説得しても、病院に入院するのを激しく拒みました。
入院をしても治療法がないので意味がないこと、そのためにかかる莫大な費用がかかることも考えたのでしょう。
病院側は研究用の患者として入院をすることをすすめました。それなら費用は無料です。
ただし、無料の代償として、さまざまな薬や治療法の実験台になるのです。
これは主に新薬を世にだすための人間モルモットになることです。
当時は戦後で、世の中はまだ混乱の状態で病人も多く、熱烈に新薬が待たれていた時代です。
結局母は、自宅療法を選択しました。
母はいつまでも、自分の病気を恨み、人生を嘆いても何も解決にはならないと考えたのでしょう。
残された子供のために病と闘う決意をしたのです。寝たきり状態だった母の壮絶なリハビリが始まりました。
私は、母から体と心の調和を保つことの大切さを教えられたのです。
病気の功罪
〝健康で正しいほど人間を無情にするものはない〟と詩人の金子光晴もいいましたが、一度も病気になった経験のない人は、人に優しくないと分析する人がいます。
それは極論としても、病後、強い性格が変貌するとか、以前より思いやりが深くなり、陰性のタイプだった人が陽性のタイプになった人の例も聞きます。
病気との闘いを通じ、痛みや弱さを知ることで、自分の限界を問われて本当に強くあることは周囲への気使いや、人に優しくできることなどを悟るような心境になるのかもしれません。
あるいは、思いがけない自分の弱さを知り、生きていることへの感謝の気持ちが自然に沸いてくるせいかもしれません。
しかし、逆に病気になることで、人生を悲観的にとらえ、自分の人生を恨んだりする人もいます。
このように、病気には人間の精神を強くもするし、弱くもさせてしまう、まったく別の性質が絡みあっています。
強弱の差こそあれ、病気にかかれば人間はこの二面の間で揺れ動きます。
病気には人間に与える影響に〝陰〟と〝陽〟の二面性があり、それがメリットとデメリット(功罪)の分岐点になるところです。
私は、四回の出産で、いつも不安だったのは、母と同じく産後にリュウマチにかかるのではないかということでした。
しかし、それは神のみぞ知ることであり、悩んでも仕方がないと、文字通り腹を据えたものでした。
私が魅力学に健康術を取り入れた背景には、こうした物語があります。
私が健康溢れる一家に生まれていたら、猪突猛進型の私は、体力の限界まで使い果たし、確実に大病に見舞われ、病院のベッドに身を置くことになっていたと思います。
そうなれば、子供たちに私が味わった寂しさと同じ思いをさせてしまう。
周囲に混乱と迷惑をかける。
そうした病気のデメリットを、極端に恐れるからこそ、私は自分なりに健康のバランスをとることに人一倍留意しているのです。
病気は共生する気持で
私の経験からいえばどんなに健康に留意しても、残念ながら病気になるときはなります。
そのときに闘病の精神も大事だし、病気に負けない闘魂も大切です。
しかし、二十一世紀はますます寿命は伸びています。人生が長くなれば、それだけ病気にかかる率も高くなります。
そこで闘病という強い姿勢で立ち向かい過ぎると、それだけで疲労し、かえって健康を害する結果にもなります。
だからといって、〝病気になったらもうおしまい〟だと弱気になっても仕方がありません。
私の母は、関節リュウマチに果敢に挑戦し、それはまさに闘病というにふさわしい挑戦であり、その執念に病気もカブトを脱いだのか、八年目に曲がったままの関節で杖を必要としましたが、自分の足で歩けるようになったのです。
しかし闘病はそこまででした。それ以上どう努力をしてもサッと勢い良く立ち上がることもサッサと歩けるようにはならないし、完全に痛みから解放されたわけでもありませんでした。
ともかく自力で歩けるようになっただけでも、医者は「奇跡」と言いました。
そう見極めをつけてからの母は、病気と共に生きると割り切ったのでしょう。
だれもが驚くほど陽気であり、身ぎれいに美しくありたいとつとめていました。
血行の悪い朝のうちは、特に痛みがひどいのですが、これも〝リハビリのひとつよ〟と言って、曲がった肘を少しずつ上げてヘアを整え、クリームをつけた顔に、軽く白粉で整え、薄く口紅を塗り、動きやすく自分流に改良した洋服に着替え、家事をこなしていきます。
「痛いのは生きている証拠よ」と母は私によく言いました。
病気になっても、人生を前向きに考えていくほうが多少とも心身ともに楽だし、人生を豊かに生きられます。