「殺せるものなら殺してみろ!」
生まれたばかりの末弟をおぶい、2歳の弟の手をしっかりと握る私もまだ6歳。
東京生まれだからという理不尽な理由で、敵意の塊となった蓮田市の腕白坊主たち。
ついにその時がやってきました。
私と弟二人は、屋根瓦を焼くかまどのある広い敷地の真ん中に、竹棒を振り上げた7~8人の子供たちに囲まれました。
しばらく睨みあいが続き、子供たちの輪が私たち3人を追い詰めてきました。
ジリジリと円陣を小さくしながら、竹棒を振り下ろそうとした瞬間!
「殺せるものなら殺してみろ!」と私は思い切り大きな声で啖呵を切りました。
私の渾身の叫びに、悪童たちは唖然!一瞬ひるみ固まりあっけにとられます。
「なにさ!アタシひとりに、たくさんで、それでもオトコ!意久地なし!」とさらに泣きながら大人顔負けの言葉を投げつけました。
こんな芝居がかった時代劇のようなセリフが咄嗟に口をついて出たのは、私が生まれた東京日本橋に住んでいた影響だったのでしょう。
昭和15年7月7日に生まれた頃。
世界大戦が始まっていましたが、3歳頃までは映画や芝居がまだ娯楽として存在していました。
演劇好きな父は家族を、歌舞伎や、新国劇映画にも連れていってくれたのです。
まだ3歳の私は、観劇中
「あの人は悪い人?」「この人は良い人なの?」と隣に座る父に質問。
すると父は「そうだよ、良い人が悪い人をやつけるんだよ、だから静かに見ようね」と私の耳に囁きました。
私が魅せられた芝居の中で聞いたセリフは、「新国劇」の時代もので静岡県が生んだ侠客・清水次郎長の子分、森の石松と呼ばれた命知らずの暴れん坊。
多くの向こう見ずなヤクザに囲まれたとき。
大の字に地面に寝転がり「さあ、殺せ!殺しやがれ」と言ったセリフ。
その時の芝居のセリフが印象的に耳に残っていたのです。
窮地にたたされた「良い人」の私に、「悪い人」であるいじめっ子集団は竹棒で襲ってくる。
「負けてたまるか!」。私はひとりではなく幼い二人の弟を守る義務もしっかり意識していました。
「良い人」の迫力に満ちた言葉に圧倒され、「悪い人」の子供たちは、リーダーもその子分たちも竹の棒をだらりと下げたまま、急に弱気な目の色になり呆然と私を見詰めていました。
夕暮れが迫った空き地は、
シーンと静まりかえりました。
私は急に萎えそうになる自分の気持ちを引き立てるために、おんぶしている弟を背中に押上げ、弟の手をさらに強く握りしめました。
その時、瓦屋の仕事を手伝いに来ていた大人たちが寄ってきて、悪い子供たちに注意してくれました。
母の介護で富山県から手伝いにきてくれていた祖母が目をこすりながら、黙って弟の手をとり、工場の片隅に建てられた家に向かい歩いていきました。
私は、急に体中の力が抜け、倒れこみそうになりながら、ふと空き地の周囲に建てられた竹垣をみると、糸のようにか細いトンボが一匹止まっていました。
私はたった一匹のトンボが自分の現在と重なり、切ないほどの寂さに襲われました。
子供には、大人にはわからない「子供たちだけの世界」があります。
今日は、悪い人を撃退したけれど、また、明日からは、今日の復讐戦のように、さらに陰湿でしつこいいじめが続くかもしれない。
私はこのトンボのように、たったひとりで弟たちを守り続けていかれるのか。
威勢の良い啖呵をきった時の私の勢いは消えションボリして家に入りました。
祖母の話を聴いたのでしょう。
家に入ると、寝た切りの母の目からとめどなく涙が流れていました。
「情けないわね、お母ちゃんがこんなだから」と。
私は母の胸にすがりつきました。
まだ幼い子供たちがいじめを受ける姿を想像した母は、子供たちが哀れでいたたまれなく、涙はなかなか止まりません。
母の姿を見た私は、母にこの状況の辛さ、心細さ、哀しさを告げてはいけない。
詳しい事は言わない事にしようと決意。
母の胸から離れると「お母ちゃん大丈夫よ」とにっこり。
辛さを伝えないのは母だけではありません。
父や兄にも告げませんでした。
何故なら父や兄たちも毎日東京の会社や学校に通うのも大変な労力と気力がいることを理解していたからです。
一夜明けた翌日のことです。
「悪い人」のお母さんが家にやってきました。
何を言われるのかと、祖母、母、私は緊張しました。
すると、優しい笑顔で子供たちのいじめを謝りつつ、5~6本のさつま芋をくれたのです。おばさんはとても良い人でした。
この日から、私の生活は一変、子供たちが良い人に変わり始め、遊びの仲間に入れてくれたり、兄弟をあやしたり面倒を見てくれるようになったのです。
村のアイドルになる。
多くの働き手を戦争で失った家族にとって、子供といえども大事な労働力でしたから、それまでは冷たい態度だった大人たちから、私にも野良仕事に加わるように勧められるようになったのです。
「精米」、「こやしかけ」、裸足で土を踏み耕す作業の「麦踏み」、身長からするとハードルの高い「梨のふくろかけ」も背伸びをして挑戦。
お手伝い賃として形のくずれた梨やとうもろこし、さつまいもなどがもらえました。
家族にも喜んでもらえること、裸足で土を踏む快感、朝日や黄昏の美しさ。満天の星空。
おばさんたちが、広い廊下に座り、番茶とタクアンや乾燥したサツマイモでのお茶会仲間に入れてくれたりしました。
お茶をすすり、タクアンや乾燥イモを食べながら、東京の生活や、富山の空爆から生き残れた私の、短いけれど強烈な体験を話したのです。
極端に情報の少ない時代でしたから、私の話は子供にも大人にも興味深々のエピソードばかり。おかげで私は、あちこちの家から呼ばれる「人気者」、そうです、アイドルになっていったのです。
寝たきりなった母親の代わりに必死で弟たちを守る生活を知り、同情してくれている部分も多いにあったのでしょう。
お互いを良く知らないまま、すれ違っていただけで、村の人たちみな「良い人」ばかりだったのです。
必死に叫んだ「殺すなら殺してみろ!」という啖呵。
東京だとか田舎だとか、そんな小さな排他意識を取り払い、戦争で受けた「死」の哀しみを共通に知る人間同士だと気が付いたのではないかと思います。
絆が深まると、村人に出会うときには、意識しなくても自然に笑顔で接するようになった私は、「可愛い子」としての位置を確立していったのです。
昭和22年、東京へ!!
村人たちとの人間関係は良好になりましたが、産後に全身が身動きできない状態になってしまった母は、一向に改善されずないまま時が過ぎていきます。
私は現物給与の食材をもらえる野良仕事に走りまわりながら、祖母と共に母の介護や家事も手伝いました。
弟のおしめの洗濯は裏に流れている小川で洗います。
何枚も洗っていると冷たさで手が痛くなり、そのうちに痺れて、気が遠くなりそうになった経験も何度かしました。
家族は母を大学病院で診察を受けさせたいと願っていました。
蓮田はあくまでも仮住まい。
8ヶ月を過ぎる頃、私は父から「もうじき、東京の麹町に引っ越しするからね」と言われました。
10歳年上の長男と8歳上の兄もニコニコ笑い「路子もそこで小学校に行くんだぞ」と言い添えました。
東京に戻れる!心も体も弾むほど嬉しく「わあ!本当!!」と、私も喜んで答えました。
せっかく心が通い始めた村の人たちとの別れが寂しいという思いが、一瞬心をよぎりました。
しかし、大好きな東京に帰ることができる喜びに勝るものではありません。
こうして、富山県富山市から、埼玉県蓮田市で暮らし、東京に戻ったのは昭和22年のことでした。
ちなみに2019年、新しく始まったNHKの朝ドラ「スカーレット」も昭和22年という時代設定から始まりました。