東京・麹町へ
◆1961年ごろ・日本テレビの本社屋、現在の麹町分室。(日本テレビ放送網、日本民間放送連盟 - 日本民間放送連盟『民間放送十年史』1961年 p.379 )
昭和20年に戦争は終わり、さしあたり空爆の恐怖からは解放されました。
しかし、人間らしい生活を取り戻すには国も個人も失ったものがあまりに多大であり、「敗者復活」の道のりは長く厳しいものでした。
私たち家族が第2の疎開先(栃木県蓮田市)から待望の東京に戻ることができたのは昭和21年。
住まいは千代田区麹町二番町の社宅。
後に日本テレビが開局(昭和28年)された場所の斜め前という、東京でも有数の高級住宅地でしたが、その真価を発揮するのは後のこと。
勤務していた「日本鉛管株式会社」社長の自宅の跡地に建てた社宅で、敷地は千坪ぐらいありました。
4軒の家が円形に建ち、中央は広い空間でした。
その端には小学生なら20人は乗れると思える巨大な石があり、入口は木の門で道路と仕切られていました。
住人は専務取締役、工場長、営業部長、そして営業副部長の父。
私たち家族が与えられた家は門からまっすぐの中央。
家の間取りは畳の部屋と、かなり広い台所の3DKだったと記憶しています。
お風呂はありません。
当時は、入浴と言えば銭湯へ行くのが常識的でした。
ギブミア!チョコレート
周辺には焼け残った大きなザクロの木があり、雑草に覆われた広い敷地がありました。
まだ、食料は配給制で、その量は少なく、餓死する人も日常茶飯事でした。
都会の人々が焼け残った着物と三拝九拝し、僅かのお米と交換するような、以前疎開先で目にした光景はまだ続いていたのです。
私たちはすぐに土を耕し、トマト、キュウリ、ナスなどを栽培することにしました。
父は会社から許可をとり、銭湯に通えない母のためにお風呂を建て増しました。
まもなくして家族全員がそろってお膳を囲める状態になったのです。
母は相変わらず寝たきりではありましたが、一時ほどの高熱や痛みも出なくなっていました。
その頃、家族の気持ちを明るくはずみをつけてくれたのが、蓮田市で誕生した末弟の成長でした。
ひとり立ちできるまでに成長した弟を、みんなで「ここまでおいで!」と歩く練習をさせます。
弟の姿を見やる母の顔がほころんでいるのが嬉しく、私は母の眼前で何度も弟を歩かせました。
弟が生まれた直後に全身の関節が動かなくなり寝たきりになった母。
それだけに弟の健やかな成長がことのほかの歓びだったのです。
食料難の時代。
我が家には一人の救世主がいました。
伯父(父の兄)はGHQに勤務していたのです。
伯父がどうしてGHQに勤務できたのか、幼い私にはわかりません。
伯父が我が家に来るときは、粉ミルク、砂糖、真っ白なパン、チョコレートなどを必ずお土産に持ってきてくれました。
木の門を出ると、いち早くコンクリートに舗装された道路に、戦勝国アメリカ(進駐軍)のジープが走っていました。
ジープにはいつも軍服を着た数人のアメリカ人が乗っていました。子供たちはジープが通ると「チョコレート頂戴!」と小さな掌を広げ背伸びしながら走ります。
無反応に通過するジープがほとんどですが、時折板チョコを何枚か投げてくれるのです。
有名になった言葉「ギブミア!チョコレート」。
一緒に遊んでいる友達が必死に走る姿を目撃することも、しばしばありましたが、私は黙ってその光景を眺めているか、黙って木の門の内へと入りました。
私だって伯父からGHQからの、厳密にいえば横流しのチョコレートを食べていたのですが、その辺は理解できず、友だちの行動を情けなく感じ自分では「ギブミア!チョコレート」とは口にしませんでした。
、長いこと「鬼畜米英」と叫んだ日々がまだ脳裏から離れていなかったのです。
白昼の”人さらい”?
7歳のとき(麹町にて)
そんなある日のこと。
やはり友だち数人と道路脇で遊んでいると、黒い大きな車からひとりの日本人男性が降り立ち、私たちに車に乗らないかと誘ってきたのです。
車中にはジープに乗った兵士の軍服よりもっと立派な服装の男性が乗っていました。
車種はフォードだったと記憶しています。
男性とどんな会話をしたのか・・・・・・。
私と友だちの何人かは車に乗ったのです。
日常生活の乗り物といえば、リヤカーか大八車くらいのもの。
自転車もまだまだ手に入りません。
ピカピカに黒く輝く異国の自動車。
「乗ってみたい!」という純粋な願望が子供たちをかりたてたのです。
もちろん、私も同じ思い。
「鬼畜英米」の気持ちなど瞬間で吹っ飛び、黒く輝く異国の自動車に乗れる興味と喜びで頭の中はパンパン。
誘いにのりました。
親に報告して許可を取るなど思いもつきませんでした。
いいえ、本当は親に相談したらとんでもないことと叱られ、却下されると全員が察していたのです。
その軽率な行動は、同乗しなかったかった子どもたちから親に伝えられました。
現代、中東の戦場では子供たちの誘拐が問題視されていますが、日本では戦争とは別に、子供が突然消えてしまう事件があり、それを「人さらい」と言っていました。
同乗しなかった子供たちから事情を聴いた親たちは驚愕し、近所にも「人さらいかもしれないので探して欲しい」と触れ回りました。
白昼のことだったので我が家には富山県から手伝いにきていた祖母と母だけでした。
祖母も近所の人たちと捜索に加わりました。
それとは知らない私たちは車でゆっくりと町の様子を見せてもらい、やがて大きく高い壁で中を伺うことのできない門戸をくぐり、豪壮な住居に案内されたのです。
品川さんちの路子ちゃん!
玉砂利が敷かれた敷地を歩きながら、さすがにこれからどうなるのか不安になりかけた私たちは手をつなぎ、肩を寄せ合い、導かれるままに和風の住居に入りました。
案内された部屋には絨毯が敷かれテーブルがあり、そこに色白の少年が座っていました。
男性のひとりは、お抱えの運転手で日本語も話せました。座りなさいと促され私たちは恐る恐る見たこともなかった大きな椅子、ソファーに座りました。
少年は立派な軍服を着ていた息子さんでした。
奥さんがいい匂いのする紅茶と洋菓子(クッキー)をテーブルに置いてくれました。
私たちは、日本の子供たちを少年に合わせるよう考えた両親の配慮で自宅に招待されたのです。
言葉が通じないのですがほぼ同年と思える少年がニコニコして私たちを見ます。
軍服のお父さんとお母さんもにこやかにお茶とクッキーを勧めてくれたのです。
「鬼畜米英」と教育されてきた私は、この時大きな衝撃を受けました。
鬼畜な米英ばかりではない。
チョコレートを投げてくれる兵士たちの憐れみを込めた上から目線ではなく、自分たちの両親と同じように、子どもたちへの差別ない愛情をもってくれるアメリカ人との出会いでした。
常に空腹と闘っている私たちは、目が点になりながらクッキーを凝視しました。
それと察した他夫人は子どたちのひとり、ひとりにクッキーを渡してくれたのです。
私たちは少しはにかみながら、笑顔の少年と目を合わせ、私たちも笑顔を返しクッキーを堪能したのでした。
帰りは運転手さんに送られ、私の家の門前に到着。
「どこに行っていたの」車から降りると同時に人々の声が飛び交いました。
私たちを探しに行ってくれていた人々も戻ってきました。
運転手さんもこの状況に気が付いて事情説明とお詫びをしてくれました。
結果として無事ではありましたが、車に乗ろうと最初に結論を出したのは、「品川さんちの路子ちゃん!」と決めつけられ、祖母から事情をきいた両親からキツイ叱責を受けました。
しかし、兄たちは興味を持ち、うなだれ泣いている私の頭を撫でてくれました。
多忙な小学1年生
私の小学校入学の時期が近づいてきました。
すでに、祖母は富山に帰り、家事は家族で行っており、兄たちも食事の支度や自分たちのお弁当作りを積極的に担当してくれました。
ただ、母は自力ではトイレの用を足すことができません。
当時は、大人用の紙おむつもなく、物資不足でおしめにする布も豊富にはありません。
結果的に、便器での排便排尿の世話は家族で唯一の女子、私の担当でした。
幼い二人の弟の面倒もみなければなりません。
相変わらず私は多忙でした。
そんな環境の中でも小学校入学のときが迫り、すでに字を読むことはできたのですが書くことができません。
平仮名で自分の名前だけは書けるようにと少しだけ動くようになった手で母、そして兄たちが教えてくれました。
さまざまな「死」
私が入学した「麹町小学校」は、後に越境入学のために住所を貸してくれと頼まれるほどの名門小学校。
現在もその地位を守っています。
けれど、私が入学した1947年の頃は校舎の3階には戦争に被災した方々が住み、階段の手すりには焼け焦げがあり、地下室は壁がところどころ落ち瓦礫が放置されたままの状態でした。
麹町小学校に入学した私は、授業に身がはいりません。
家族全員で一応の平和な日常が戻ってきたのですが、荒れ果てた学校の状況は、戦争中に出会った多くの戦死者や三男の兄の死。
母のリュウマチ、弟にヤケドを負わせてしまった当時の記憶にリンクします。
表面的には明るい少女でしたが、内面にはかなりの陰とウツを抱えていたおませな小学1年生でした。
友人たちの行動も子供っぽく映り、先生の言葉さえ頭の上を通り過ぎ退屈極まりなく、授業も理解できずに始終「頭が痛い」と母に愚痴っていました。
その頃学校で麻疹(はしか)が大流行。
頭痛持ちで、当時は法廷伝染病だった「百日咳」にかかったことのある私が、一番に罹患。
次にヤケドをした弟、最後に末弟にも感染し、3人で枕を並べて寝ていました。
その時は医者は私が一番重篤な状態だと診断をしていました。
しかしその後、末弟が激しいひきつけをお越し、父が医者を再度呼びました。
末弟は白目をむき、ひきつけが治まると同時に息絶えてしまったのです。
私は弟を腕に抱き、何度も揺らしました。
僅か1歳3ヶ月で末弟は天国へと旅立ってしまったのです。