日常から、「死」の意味と現実を知る。
私と弟
富山県から埼玉・蓮田に移住した時に誕生した末弟のオサムが、麻疹から肺炎に罹患。
オサムの命はあっという間にあっけなく絶たれました。
すすり泣く母の声、医者を罵倒する父の声も遠くに感じました。
聞こえてはいるのですが、感情が動かないのです。
私の腕の中で眠っている弟。
目を覚ましいつものように私の顔中を手でなでたり、甘えたり、「マンマ、マンマ」と食事を要求するとしか思えない可愛い弟の眠るような顔。
今は眠っているだけ、起こせば起きるはずとしか思えないのです。
しかし、何度も、何度もオサム、オサムと呼び掛け体を揺するのですが、オサムはピクリとも動きません。
1年2か月になっていたオサムは、食料難時代の幼子とは思えないしっかりとした肉付きの良い赤ちゃんでした。
抱いている腕が痺れ布団に寝かすと、黙って私の動きを見ていた大人たちがオサムを真っ直ぐに寝かしつけ、白い布を顔にかけました。
私はただボーッと立ちその光景を見下ろしていました。
死とは、その存在が消えて行くのだと実感したのは、オサムの可愛い姿が家の中から消えてしまってからでした。
無感情になっていた私の心にオサムの姿がないという日々の現実によって死というものを実感し、泣くことすらなかった虚無の状態から反転、激しい悲しみの感情にさいなめられ、在りし日の弟の姿を追う日々が続きました。
家族全員の喪失感も半端ではありませんでしたが、いつまでも落ち込んでいられない父や兄は、まもなくして会社や学校へと出かけていく「日常」に戻っていきました。
時々、風に乗って赤ん坊の声が聞こえてくると、母は涙を浮かべ耳を防ぐようにします。
私は家を飛び出し泣いている赤ん坊を背負ってお守りをしている人から、赤ん坊を抱かせてもらい泣き止むまであやしたりすることもありました。
工場長のおじさんの子供二人と私と弟
門前の”お友だち”
そんなある日、父はやつれ切った母を連れ、大学病院で精密検査を受診させました。
私はそのまま母は入院をしてしまうのかと不安でした。
しかし、母は家に帰ってきました。
そして、翌日から母は体を動かし横になろうとします。
寝返りを打つ感じです。私は駆け寄り「背中が痛いの」と聞くと母は「自分で起き上がりたいの」と、思いがけない言葉が返えってきたのです。
「心臓や内臓には問題がないが、関節のすべてが歪み、痛みがひどい「関節リュウマチ」。
『治験患者に登録して治療を受けられたらどうですか』と医者に言われたんだが、お母さんは断ったんだよ・・・・・・と父がいいました。
治験って、どんな意味だろうと私は思いました。「治験で入院したら、いろんな実験や効果はまだ不明の新薬を飲まされたりするのよ。
治る保証があるわけでもないし、子供たちと家にいた方がいいわ」と母は言いました。
私はホッとしました。どんなに体が不自由でも言葉が通じる母の存在は、やはり家庭維持の大黒柱の1本となっていました。
末弟を失い、母までが家にいなくなったら我が家は寂しく暗い家になってしまうと思いました。
食事の支度、洗濯、片付け、家の中の雑事は兄2人と私、そして弟もそれぞれに母の教えに従い覚えていきました。
両親ともに長のつくきれい好き。おかげで家は常に清潔で整頓されていました。母が果敢に体を動かす所作を繰り返す行動に、家族は全員協力しました。
末っ子のオサムが亡くなった当時のやつれ切った母が、痛みと闘いリハビリに精を出し始めた理由は私たち子供のためでした。
オサムを失った悲しみは深く大きくても、まだ4人の、特に小学生の私と火傷を負った弟は母を頼りにしているのです。
自分が悲哀感情の中に埋もれていて寝たままの姿勢を長く続ければ続けるほど、病状はさらに悪化して子供たちの重荷になってしまう。
幸い内蔵は冒されていないので気力さえ持続できればリハビリに挑戦しようと決心したと、追い追い話すこともありました。
家庭背景にこうした事情を抱えていた私は、友だちの幼い感覚とは相いれずよくケンカもしました。
掃除のときには男子生徒がホウキで私を攻撃しようとすると、私はハタキでかがみ込みブチ返す。
私が、授業開始時間ぎりぎりに教室に入ると全員がプイと「チェ」という感じでわざとらしく横をむきます。いわゆる、シカト、無視です。
私は自分の席に座り前を向き平然としていました。
あんまりしつこく絡まれると、担任の先生にも断りなく家に帰ってしまいます。
ある日、例によつて掃除時間にケンカをしたあと、最後には、私の首に紐のようなものを巻き付け私を四つん這いにして、男子数人が囃したてたのです。
あまりの屈辱に私は泣きわめき、怒鳴りちらし紐をつかみ立ち上がると「テメエラ、なにするのよ」と啖呵を切りました。
そして、怒りの感情を抱えたまま、校門を飛び出し足早に歩き家に向かいました。
数人の子供たちが私の後を隠れながら追いかけてくるのです。
私は時々チラッと振り返り、門の前に立ちます。
彼らの存在を意識しつつ私は門戸を開け素早く姿を消してしまいます。彼らは門の中にまでは入ってはきません。
当時の麹町はまだ建造物の復旧はされておらず、友人たちの家もバラック建が多く、門戸のある家に子どもたちはある種の憧れを持っていました。
私が近所の子供たちと外車のフォードに乗せられ着いた家は、鉄の門構えでした。
その家の前には何回も立ち、高い鉄の門を見上げ知らない未知の世界への憧れと興味で、胸が痛くなるほど関心をもったものでした。
母には、いじめや無視されていることは省き、追いかけてきた友だちを門前でぴしゃりと戸を閉めて追い返したと伝えました。
すると母が「あらっ、お友だちがせっかく門の前にまできたんだったら、家の中に入れてあげればいいのに」私は、びっくりして母の顔をみつめました。
あのしつこい意地悪の友だちをこの門の中に招きいれるなんて思いもつかないことでした。
「だってお母ちゃん、あの子たちは」とまで言いかけた後、私は口ごもってしまい涙が出てきました。
打てば響く「清水次郎子」
一年生の時のことです。担任はアベ先生という中年のベテラン先生でした。
誰に対しても公平で厳しくもありましたが優しく、子供たち全員が先生を慕っていました。
私の成績表はあまりにひどく、勉強の能力には触れず添え書きに「打てば響く賢こさを生かしてください」と書いて下さり、両親を困惑させ苦笑したものでした。
そのアベ先生が高熱を出し休暇を取られました。
先生の家は子どもでも行かれる距離にあったので、子どもたちが相談し、先生のご自宅にお見舞いに行くことになり、私にも、一応声がかかったのです。
「お母ちゃん、私も先生のお見舞いに行きたい」と無理を承知で言ってみました。
無理を承知というのは、母は私がいないと用を足すのにも困るのです。
いつも何かとお手伝いをしてくださる工場長の奥さんもその日にはお願いできない状態でした。
言ってはいけないと思いながら、「私だけ、いつも友だちと遊べない」と不貞腐れて泣いたのです。
母も辛そうな顔で押し黙ったまま、母娘の間に流れる気まずい空気。
今、原稿を書きながらもあの時の母娘共々にやりきれない気持ちのやりとりの記憶がよみがえります。
「ここの庭は広いし、大きな石もあって面白いし、お友だちみんなが遊びに来ても入るでしょ。路子が外に遊びに行かなくてもこの庭で遊べば、お母ちゃんも安心だし」。
母に言われて気が付いたのは、本当は私も友だちと縄跳びや缶蹴りなどで遊びたかったのです。
アベ先生の所へみんなと一緒に行かれなかった時も、断る理由が言えなくて、行きたくないからと言ってしまったことが思い出されました。
その気持ちを抑えるには友だちと距離をおいても平気だと虚勢を張るしかなかったのです。
母はその、娘の寂しさが分かっていたのです。母の言葉がヒントになり、私はともだちに宣言したのです。
「家に遊びにこない」と。
するとどうでしょ。
「お前の家に、遊びに行っていいの」と、いつもイジメの先頭にいたガキ大将が嬉しそうに聞いてきました。
「お母さんが“いいよ”って言っていた」と答えると、私の誘いの情報は瞬くまに伝わっていきました。
時を経て麹町小学校の同窓会の集まりのときに、全員が私の住んでいた社宅前の広い庭で遊んだことが話題のひとつになるのです。
友だちとの交流が広まった私は、4年生から猛勉強し成績もアップ、ケンカはしなくなりましたが仲裁することが多くなり、私の仇名は清水港の侠客・清水次郎長にちなみ「次郎子」と呼ばれるようになりました。
七五三に富山のおばあちゃんが来てくれて靖国神社で