【マダム路子・自分史(第10話)】心の余裕と、大きな目標が定まった、小学5年生。

母のリハビリは、僅かずつではありましたが、効果が表れ始めました。
2019/12/01

母の回復

体重を支える腕と手に筋力がつきはじめ、横向きになて「上半身」を腕と手で支えられるところまできました。

 

しかし、そこからが難しい。重い腰を動かして、畳に座る姿勢にならなければ、不自由なままです。

 

これについては家族がフォローして座布団に座らせることを試みて、ようやく座る事が出来ましたが、体幹が弱いので、すぐに横倒しになってしまいます。

 

母は、「起き上がりこぼし」のように同じ動作を繰り返しますが、へこみません。

 

こうした自助努力と、痛み止めの薬と、後は民間療法の鍼灸、指圧、マッサージの施術を受け、ついに母は、上半身をおこし「いざり座り」ができるようになるまで回復したのです。

 

座れるようになった母が最初に行ったのは掃除でした。洋焼物の藁ブラシを使い、畳の目に沿ってホコリを払います。

 

さらに関節が曲がった指で縫物、編み物をするまでになり、出来栄えは健常者と変わらず縫い目や編み目の整列が美しく、周囲の人たちも驚いていました。

 

友だちが遊びに来たときには手すりがついた出窓に座り、縄跳びや、缶蹴り、竹馬、10人ぐらいの子供たちがのれる巨大石に乗って元気に遊ぶ姿を嬉しそうに眺めていました。

 

母の回復は、どこか無理をして笑顔を作るようにしていたのが、心底楽しいから浮かべられる笑顔に変わっていきました。

 

心に余裕ができた私には、麹町小学校生活は楽しい場と変わっていきました。

母の編んだセーター

友だちも増えはじめ

母の家事能力はさらに進化し、自分ひとりで用も足せるようになりました。

 

これによって私の負担は減り、学校生活では運動や、勉強に今まで以上に力を入れられるようになっていきました。

 

友だちの家に遊びに行けるようになり、友だちも加速度的に増えていったのです。

 

父は『読書をさせる』ことを教育方針の1つにしていました。

 

まだ、紙もなく本といっても「ざら紙」の頃から私たちに「おとぎ話」「偉人伝」を揃えてくれました。

 

兄たちは当時カストリ雑誌(AV系の危ない本)を両親に隠れて読んでいました。

 

私は意味もわからず兄たちの本をみつからないよう拾い読みし、大人の世界を覗きみる“おませ”な小学生でした。

 

埼玉蓮田の山野を駆け巡った私は脚力があり、運動会では徒競争の選手にも選ばれました。

 

そのことを母に伝えると自由な足で飛び回った子供の頃を思い出したのか「お母ちゃんもね。

 

あなた位の頃は足が早かったかったのよ」と、言いました。

 

めったに弱音を吐かない母ですが、できることなら、今も自分の足で自由に動きたいと強く思っている事が、私の胸に響きました。

青い山脈と「DDT」

まだ、映画館や劇場などは復旧されていなかったので、校庭で映画鑑賞会が開催されました。

 

それぞれが持ち寄った布や座布団を敷き、大人も子供も一緒になっての鑑賞です。

 

上演されたのは、「青い山脈」。高校生の青春もので、小学生の私にはストーリーの半分は理解できませんでしたが、モノクロ映像の中で動く俳優の演技にワクワクドキドキしました。

 

日本橋に住んでいた戦時中の3歳頃、家族と映画を観に行った記憶が蘇り、映画の世界にどっぷりとはまりこみました。

 

また、あるとき、生徒が校庭に集められました。その上をプロペラ機が旋回しています。

 

私たちはちょっと不安になりながら空を見上げました。

 

飛行機から真っ白い粉が私たちの毛髪に降り注いだのです。

 

白い粉は私たちの頭の中に巣くっているシラミ退治をする散布薬(DDT)だったのです。

 

真っ白になったお互いの髪や顔を見合って大笑いしました。

 

中途入学してきた新入生には、いち早く話しかけて友人になりました。

 

みんなに紹介しひとりぼっちにしないようにしてあげるのです。

 

早く学校に慣れて欲しいという思いや、興味本位にいじられるのを防ぐためというのもありましたが、実は、私自身が、新入生に対して興味津々で、近づかずにははいられないというのが本音でした。

 

まあ、早く言えばおせっかい屋です。

 

新入生も心細いせいか、私の声がけをすぐに受け入れて仲良くなります。

 

なにしろ小学生としては身長もあり大柄で声も大きい。

 

小学4年生の頃になると学校で、国語、社会、道徳の教科書を読む時には、みんな退屈そうなので セリフ回しのように感情表現たっぷりと盛り込み読んだのです。

 

先生も思わず苦笑い。友だちの眠そうな顔が笑顔に変わって行くのを楽しむのでした。

弟が小学1年生に

私が4年生になったとき、私の行くところには必ずついてくる弟が1年生として入学。

 

弟は、顔の右半面に火傷の傷が残り、小指の先が無い状態でしたが、それを隠すでもなく、明るく元気でした。

 

末っ子のわがままさはありましたが、同級生にいじめられている様子もなく、私は内心ほっとしていました。

 

私の友人たちも弟の外見を笑ったりからかったりすることもありません。

 

私も上から目線な態度から友を大事にする良い子に変身していきました。

 

それでも、弟を少しでもいじめたりからかったりする情報を聴けば、運動場で弟の担任に「私の弟をいじめたりしたら、しっかり先生叱ってください。

 

先生が言わなければ私が言いますから」と啖呵を切る。

 

男子顔負けでケンカも強く、侠客・清水次郎長にちなみ「次郎子」と呼ばれる貫禄は、若い先生には手のあまる生徒でした。

 

学級副委員長から委員長になりホームルームの仕切りも引き受けました。

 

現在の子供たちは学級委員など「めんどくさい仕事」はやりたがらないと聞いてます。

 

しかし私たちの頃は、文武両道に優れた子供として、先生からも生徒からも一目おかれる役職だったのです。

 

また、私は千代田区の麹町の「健康優良児」に選ばれました。

 

家の庭にあるブドウの木の物語(実はブドウはありませんでした)を書き、「読売子供新聞」で優秀賞を受賞し、両親や兄弟も大喜びしてくれた日もありました。

 

私も嬉しく自尊心を満たされました。

 

私の存在は学年が上がると共に学内での名が知られるようになっていったのです。

 

学芸会では主役で舞台に立ち、会場の視線を浴びることの快感を味わいました。

 

麹町の氏神さまが山王神社。

 

お祭りには、両親が町内会の会長から、お神輿を引く山車の先頭に立って歩く役を依頼され引き受けました。

 

そのおじさんは私を「麹町小町」などとおだてるのですが、そんなおだてより、母に私の手古舞の扮装をみせたかったので引き受けたのです。

健康表彰
お祭り

目指すは「山脇学園」

私が、5年生になると両親は私を「私立山脇学園」に進学する事に決めました。

 

兄たちは山脇学園が大好きらしく、たったひとりの妹が無事受験に通るよう期待されました。

 

まだ、学習塾などない時代です。受験勉強は私立を目指す子供たちが残って受験用のテキストに従う課外授業で学ぶのです。

 

当時は、志望校を1校だけ選ぶのが一般的でした。

 

まさに、一発勝負。

 

私自身も受験校は山脇学園一本に決意。

 

三者面談に父と二人で担任の先生に会いました。1年生の時の女性のアベ先生ではなく、豪放磊落な中年の男性の先生で、私も敬意を払っていた担任でした。

 

父が志望校は山脇学園と伝えると、先生は腕を組みじっと考える風でなかなか言葉がでてきません。

 

やがて、「う~ん、お気持ちはわかるのですが、現状の成績では山脇学園は厳しいと思います」いつも物言いのはっきりしている先生がやや歯切れ悪く言いました。

 

もう少し偏差値(当時はこんな言葉もありません!)が低い学校の名も上げられました。

 

私はショックで胸が締め付けられるようにズキズキと痛み始めました。

 

私は睨むように先生と戸惑う父の顔に向かい、他校の選択はしないと断言したのです。

 

いまや、麹町小学校のスターである私が、志望校に入る力がないとは、衝撃的な屈辱でした。

 

必ず入学する、してやる、私の熱い血がたぎった小学校5年生の三者面談でありました。

父と友人たち(旧日本テレビ通り)