【マダム路子・自分史(第12話)】のちの人生にも影響を与える”初舞台”

2019年12月23日、大井町駅近くのホール「きゅりあん」で、キッズからシルバーまでステージに立つ、ビューティーショーが開催され、私は講演で参加した。
2020/01/13

観客の視線を浴びる

シルバー モデルと

3歳から高校生のプロになれるキッズコンテストもあったが、アマチュアモデルとはいえ、ステージ狭ましとウォーキングする姿は、キッズとは思えないほど堂々としていた。自分の可愛さ、カッコよさを臆することもなく表現する姿に感心した。

 

シルバー部門の女性たちは70代3人、80代の方も参加されていた。

 

日常では着ることはないであろう華やかなドレスに合わせたヘア&メイクが施された。

 

出来上がった姿を全身が映る鏡で確認すると、顎を上げ背筋をピンとポーズをとる。

 

身長が伸びたかに見えた。

 

足元も軽やかにウォーキングするシルバー世代の姿に観客から大きな拍手が沸いた。

 

出番を終えたにモデルさんたちと記念撮影をした。

 

みなさんの瞳はキラキラ輝き、満面の笑みで一気に若返った感じが素晴らしいと思った。

 

プロの手による美容やファッションの力で「加齢を華麗に変身」。

 

その姿を多くの観客に見てもらい拍手を受ける喜び。

 

日常とは異なる空間で自分に関心を持ってもらい拍手で称えられる感動が若々しさを取り戻す。

 

こうした現場が私は好きである。

 

モデルウォーキング後が私の講演だった。熱心に耳を傾け頷き、笑い、涙してくれる姿がライトを浴びて浮かび上がる。

 

観客の視線が一点となり、私を見てくれる時の高揚した気分。

 

この身体が熱くなる感覚・・・・・・

 

それは、あの日、あのときに知った。

キッズとシルバー

「礼儀」「礼節」の学園生活がはじまる

小学5年の時に担任は、現在の成績で山脇学園への進学は無理だと言った。

 

一瞬、ショックと屈辱感に陥ったが、同時にメラメラと反発心が燃え上がった。

 

その悔しさは、私が必死に受験勉強に取り組むためのパワーとなり、七日入学を果たした。

 

憧れの制服を着て、私は高円寺から赤坂見付(山脇学園)に通うことになった。

 

初めて担任を受け持つという若い女性の先生。専門は数学だった。

 

教室に座りクラスの仲間たちをそっと見回した。

 

女子校だから男子がいないのは当たり前だが、校則に従い、全員が三つ編みにしたヘア。

 

同じ制服。

 

小学校時代とはまるで異なる環境と空気。

 

これからの学園生活はどんな風になって行くのかわからない。

 

小学校時代の女親分のような振る舞いは、封じ込めなければならないと決意。

 

山脇学園は「礼儀」「礼節」を重んじる校風を目指していた。

 

体育の時間に教えられたのが「はい」という返事。

 

教師は強面の中年の男性。

 

直立不動の姿勢を整える。

 

次に思い切り息を深く吸い込む。

 

その息を吐きながら「はい」と大きな声で返事をする。

 

これを何度か繰り返す。

 

教師曰く、「礼儀の基本はキチンと返事ができることだ」と。

 

次にお辞儀の姿勢。

 

角度15度(軽い会釈)、角度30度(丁寧な会釈)、45度(最敬礼)の練習。

 

先生から呼ばれたらきちんと「はい」と答えること。

 

廊下で眼前に先生や先輩と出会ったら、30度のお辞儀をして前をあるくことなどが厳しく通達された。

終戦直後の汽車がフラッシュバック

山田流の琴の学科があり、広い畳の部屋で練習をした。

 

担当の先生は、ゆったりと和服を着こなし凛として上品な中年の女性だった。

 

生徒たちはそれぞれが琴を選びその前に「正座」。

 

すでに多くの生徒たちは日常の生活が畳から椅子に変わっていたので、正座は辛い。

 

その姿勢で琴の調律をする。

 

これが難しく、時間がかかる。

 

必死になると姿勢が前のめりになってしまう。

 

すると、先生が柔らかいがよく通る声で「背筋を伸ばしてください」と注意する。

 

先生に言われるとピンと背筋を伸ばすのだが、再び前のめりに。

 

先生は立ち上がり生徒たちの輪に入り、調律のしかたを指導してくれた。

 

ようやく全員の調律が終了すると、先生が見本演奏を聞かせてくれた。

 

さくら~さくら~の美しい音色に、中学1年生の私たちは痺れた足をさり気なく横にずらしながら聞きほれた。

 

他の殆どの授業は、あれほど試験勉強に打ち込んだのにどの授業も退屈で面白くない。

 

すぐに眠くなってしまうのだ。通学は中央線四谷駅で降り、次に都電に乗り換える。

 

この都電の込み具合が凄い。

 

ドアがなかなか閉まらないことも多かった。

 

終戦直後に乗った汽車を思い出したものだった。

 

学校に着く頃はかなりくたびれてしまう。よく遅刻もした。

クラブ活動の選択肢

そうこうしているうちにクラスの中で友達もできた。

 

席順は身長の高さで決められた。

 

自席周辺に座る生徒とはすぐに友だちとして親しくなっていった。

 

勉強はつまらなかったが、友だちとのおしゃべりは楽しく、次第に私は休憩時間のおしゃべりの中心となっていった。

 

入学から1ヶ月程。学校生活のル―ティンが身につきはじめたある日。

 

「今年、山脇学園は設立50年を迎えました。10月には50周年文化祭が開催されます。文化祭にはクラブ活動の発表会があるので、みなさんも必ずクラブ活動に入部して文化祭のお手伝いもしなければなりません」。

 

先生の発言以来、おしゃべりの話題は、「どこのクラブに入部するか」に集中した。

 

私の小学生時代の夢は「作家」になる事だった。

 

作文が子供新聞に掲載されたのと、読書が好きなのが作家を志望するきっかけになっていた。

 

作家になるなら、まず「国語」をしっかり学ばねばならない。

 

しかし、国語は文法などの習得が占めていて面白くない。

 

日記も付けていたが続かないでいた。

 

自分の紹介的な作文も書かされたが、すらすらと書けない。

 

この段階で「作家」への夢は儚くも潰えてしまっていた。

 

何を基準にクラブを選ぶか。

 

スポーツなら山脇学園はテニスがダントツの人気だった。

 

他に卓球、ソフトボール、バスケット、バレーがあったが、朝練があったりするので無理だと思った。

 

あと、お琴、英語、山岳部もあったがどれも強く興味を魅かれるクラブがない。

 

廊下にはそれぞれのクラブが入部を促すポスターが貼られていた。

和田さんのひとこと

ある日、私は校庭でひとりテニスを見ていると、同じクラスの小柄な生徒の和田さんがニコニコしながら近づいてきた。

 

顔は見知っていても、席が遠いので話をしたことがなかった。

 

「クラブ、決まりました?」と和田さんが質問した。

 

「まだなの、和田さんは」と聞き返すと、

「私もまだよ。ちょっと面白いクラブがあるので一緒に見学に行って見ないかと思って」と言った。

 

私はびっくりした。

 

普段まったく交流のないクラスメイトから、私がまだ認識していないクラブに誘われるのも不思議だし、第一、「面白そうなクラブって・・・」。和田さんの顔をしばらくみると、「演劇クラブよ」と、綺麗な歯並びを見せて笑顔で答えた。

 

言われてみると演劇クラブってあったなぁ、と思いだす程度の認識だった。

 

「でも、どうして私を誘ってくれるの」と言い返すと「品川さんって休憩時間のおしゃべり巧いなあと思っていたのね。声も通るし演劇クラブが似合っていると思うの」と。

 

私の大声は前の席にも届いていたのかと、ちょっと恥ずかしかったが、和田さんが笑顔を浮かべて「演劇クラブ」と言った言葉が、クラブを決められないでいた胸の内にストンと落ちた。

 

和田さんと私は二人で演劇クラブがある教室の戸を、おそるおそる開けた。

演劇クラブメンバー

そして開幕

元来、演劇クラブは中学生、高校生に分かれて学園祭にも、それぞれ別の演目を発表するのだが、50周年の秋の文化祭を開催するためにすでに演劇クラブは、中高一貫の生徒が集合していた。

 

演目も一つに絞ることで、上演時間を長く使う。

 

配役も中高から選抜することによって舞台に奥行が出るとしていた。

 

緊張して末席に座った新入生に中央に座った高校三年の3人の先輩のひとりが声をかけてくれた。

 

「演劇クラブにようこそ、大歓迎です」高校3年生と中学1年生の年齢差は5歳。

 

だが、新入生の私たち2人には雲の上の人のように思える貫禄だった。

 

声をかけてくれたのは山田さんという部長。両脇の2人が副部長だった。

 

山脇学園50周年記念文化祭の演目はルイザ・メイ・オルコットの4人姉妹の物語「若草物語」に決定。

 

アメリカでは原作が映画にもなった。

 

主な配役は長女メグ・次女ジョー、3女ベス・4女・エイミ。

 

その配役の次女ジョー役に中学1年生の私が抜擢されたのだ。

 

映画でもジョーが主役だ。身長が先輩たちと変わらなかったのも選ばれる条件だし、セリフも読まされたがその結果も良かったらしかった。

 

山脇学園50周年の文化祭で講堂には2,000人近い観客が集まり開演された「若草物語」は、大好評のうちに幕を閉じた。

 

ステージの中央に立ちライトを浴びる快感。

 

主役でセリフを伝えられる感動。この感動が私の人生の選択に大きくかかわることになっていた。

 

私は一躍、山脇学園の有名人となった。

 

しかしこの後、私は山脇学園にとっては許しがたい掟やぶりの行動で、学園内の有名人は問題児へと陥落していったのだった。

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