講演は女優のように
山脇学園50周年記念文化祭。
中高合同で開演した「若草物語」では、セリフも出番も一番多い主役の「ジョー」を演じた。
ステージは学園の講堂だった。収容数は2000人。
ステージの中央に立ち必死で覚えたセリフを2階席あたりを見ながら言う。
演出家に「目線がやや上向きの方がお客全体に真っすぐに見える」と指導されたからだ。
2000人の視線が私に注がれる。
ジョーが自分に乗り移ったかのように、少しずつセリフに熱がこもってくる。
いまだかつて、経験したことのない興奮で私の声も動作も大きくなっていった。
終演すると万雷の拍手。私は体中に満ちてくる深い感動を味わい、笑顔が止まらなかった。
母にも観てもらいたかったが、関節リュウマチによる寝たきり状態は脱したとはいえ、外出は無理だった。
父や兄、山脇学園を紹介してくれた兄の友人たちは観に来てくれていて、多いに喜んでくれた。
主役の快感と、ワンチーム
公演のある10月備え、夏休みはすべて「若草物語」の練習のために学園に通った。
4人姉妹の配役を決定するには、指導的立場にある高校3年生たちがかなり討議したという事情を後で聞かされた。
討議とは、中学1年生の品川路子を主役にするか否かだ。決定するのは高校3年生の部長、副部長。
部長は私の起用に真っ向から反対ではないが、私を抜擢した事で演劇クラブに参加している他の生徒たちの思惑を気にかけていたのだ。
だが、副部長の堂下さんは低学年ではあるが、ジョー役は「品川路子にするのがこの演目を成功させるわよ」と自分の信念を貫き推薦してくれたということだった。
「若草物語」の長女役は高校三年生、次女役が私で中学1年生。
三女役は高校2年生。
四女役が私と同じ中学1年生。私と一緒に入部したクラスメイトではありませんが、同じクラスの子だったので心強く感じていました。
私の恋人役ローリーは美形の高校2年生の先輩でした。
クラスメイトのお父さんは東宝劇場の演出部にいらしたので、装置などを借り入れることもができた。
イギリスの中流家庭のリビングを中心にストーリーが進む。
出演者の頑張りは当然だったが、大道具や小道具の準備、チラシやプログラム制作担当の生徒たちの気合も素晴らしいものでした。
まさにワンチームの活躍が、文化祭に出場や展示をしたクラブ中でピカイチの人気を獲得。
文化祭終了後もしばらくは、学園内の話題となり私の名前は一躍先生にも、生徒たちにも知られる存在になっていったのです。
憧れの先輩「堂下さん」
クラブ活動は従来通り、中高合同の活動は解散。
高校の先輩たちとは滅多に会うこともなく廊下で偶然遭遇する程度。
特に高校三年生の教室は別館にあり敷居も高く、中学1年生の私たちが容易に行ける場所ではなかった。
私にはそれが寂しかった。私を推薦してくれた堂下先輩(副部長)が好きでたまらなくなっていたからだ。
それは、まさに「初恋」のように胸が熱くなったりドキドキと動機がしたりする、自分でもどう向き合ったら良いのかと混乱する不可思議な感情。
「初恋」といえば、小学6年生の頃に隣組に転校してきた美少年に淡い思い抱いた経験もあった。
しかし、当時の堂下さんへの憧れの感情は、美少年に心惹かれたそれとは、段違いに強く深いものだった。
女子高でこうした気持ちを抱くのはけして私に限ったことではない。
「K先輩が好き」「D先輩はカッコいいから大好き」と言った話は友人たちの中でも特別なことではなかった。
いわば宝塚の男役に夢中になる感情に近いのかもしれない。
当時の学内にはカメラマンが常駐。注文すればその場でスナップを撮ってくれる。
そんなとき、たまたま意中の先輩に会えればツーショト写真が撮れた。
出来上がった写真は玄関の壁に張り出され、気に入れば購入する。
しかし、私の憧れていた堂下さんとは廊下で会うことも、校庭で出会うチャンスもなく、熱い思いばかりが募っていった。
そんなある日、これからクラブに顔を出そうとしているときだった。
クラスメイトは「欠席する」と言って、先に帰宅していた。
「堂下さんたち高三の先輩が品川さんに、屋上にくるように伝えてくれと言われたわ」と一年先輩から声をかけられた。
「ええ、屋上に行くのですか、なんかあったのでしょうか・・・?」。
「じゃあね」と一言。
私の質問には答えず彼女は足早に立ち去り行ってしまった。
「屋上に来い」とは、どういうことなのか。演劇クラブの集会は教室で行う。
それが「屋上に」とは、にわかに不安になった。だからと言って知らん顔したまま帰宅してしまうのはまずいと本能的に感じた。
いや、もしかして私が堂下さんを慕う気持ちを察して、密かに会おうとしてくれているのではないか。
私は堂下さんに長い手紙を書いたこともあり、その返事ももらっていなかった。
不安な気持ちと期待の入り混じる気持ちに押し潰されそうになりながら、私は屋上に続く階段を上って行った。
屋上の入口には重い鉄の扉があった。
扉を両手で押し、中にはいる。
そこには30人ぐらいの演劇クラブの高校生たちが険しい表情で揃っていた。
夕暮れの校庭と、黒い集団
私は、驚きで胸が張り裂けそうになりながら、頭を低く45度の角度でお辞儀をした。
堂下さんたち高校3年生が前列にズラリと並んでいたが、部長の姿はなかった。
「みんなの前にきなさい!」と言ったのは副部長の堂下さんだった。
「はい」と私は大きな声で返事をして30人の先輩たちの前面に立ち頭をさげた。
1:30人の対面。
こうした風景が以前にもあったと目まぐるしく脳が動き記憶回路を探りだす。
そうだ、終戦直後に埼玉県蓮田市でしばらく暮らしていた時だった。
「東京っ子!」といじめられ、追いかけられた挙句の果てに、私は悪童連に啖呵を切った。
「殺せるものなら殺してみろ!私ひとりにそっちは大勢でなにさ」。
私は、一人といっても生まれたばかりの末弟をおぶい、2歳の弟の手を引いていたが。
「品川さん、今日、どうしてここに呼び出されたかわかるでしょ」と堂下さんと親友の先輩が言った。
「すいません、わかりません」と直立不動の姿勢で私は答えた。
「そう、わからないの」と先輩がたたみかける。
「はい」。私は先輩を直視して答えた。
「いま、品川さんは、キチンと「はい」と答えたわね。山脇学園では入学するとすぐに「はい」という返事が相手に届くように訓練を受けたでしょ」。
「はい!」と再度私は答えて先輩を強く見つめた。
私の行動が先輩たちの怒りになっているらしいことはわかってきたが、その原因はまだ胸に落ちてこない。
その苛立ちさもあったが、憧れの堂下さんの冷たい視線が哀しく、早くこの場を離れたかった。
「「はい」の返事の練習と同時に習ったことがあったでしょ。それは何だった?忘れちゃった?」
「いいえ、15度30度45度に頭を下げる練習です」。
「あらっ、覚えているじゃない」。
・・・・・・あっ、そのことなのかと、思い当たる事があった。
学園内でアイドルのように有名になった私は、確かに鼻高になり、先輩に対する態度が慣れ慣れしく、肩を叩き立ちどまらずに軽い会釈の15度スタイルで対処していた事実が思い浮かんできた。
「あっ、すいませんでした。先輩たちにしっかりお辞儀をしていませんでした」とすぐに謝った。
しかし先輩はどうしてそんな態度を取れたのかを責めて来た。
「それは、文化祭で、、あの、、」有名になったから、ついのぼせてしまったのだが、その辺は巧く表現できない。
「あなたを若草物語の主役にしたのは私たちだけど、あの舞台の成功は、あなたひとりのおかげではないのよ。みんなの協力があったからでしょ?」、と先輩が前進すると、他の先輩たちも前進する。
紺色や黒色の制服姿が一歩一歩と近づいてくると、想像もしていなかった恐怖感に襲われた。
「それは十分に分かっています、でも」「でも、何?」と、さらに全員が前進。
でも、みんなに褒められ、つい正しい礼儀をすることを疎かにして・・・・・・
とか言葉を続けたいのですが、黒い集団となった先輩たちの表情に恐怖感が募っていきます。
ジリジリと屋上の壁際に追い詰められて行き、思わず振り返って眼下を見ました。
夕暮れが迫る校庭が遥か遠くに見えます。
これだけ屋上が高いと身震いがでました。
その後の記憶はあまりないのですが、とにかく、平謝りに謝って解放されたのでしょう。
この日から、幼少時には木登りも平気だった私は「高所恐怖症」になった。
しかし、この一件は、私の人間性にかなり影響を与えていると思う。
得意満面に自分の行動を自慢すると母が『実れる稲は穂を垂れる』と一言。
つまり、手柄や成功をすればするほど、頭を下げるようにしなさいという教訓だ。
そして、演劇クラブの部長に
演劇クラブを引き継ぐ
三年生送別会
後年、堂下先輩たちと会ったときにこの時の話をすると、
「屋上で追い詰めたなんて、記憶にないけれどね。私は、品川さんを一目見たときから、この子には他の下級生にはないオーラーがあるとピンときたのよ。間違いなかったわ。それに、みんな少し嫉妬していたかもね」
とウィンクしてくれた。
「山脇学園の卒業生同志として応援しているわよ」と、私を抱きしめてくれた先輩旧姓堂下さん。
私も強く抱きしめ返し、大好きだった先輩への思いが実ったことに深く感動した。
先輩たちが卒業した後、私は「女優」を目指し演劇クラブは部長になる。
演出も務められるように勉強し、成長していきながらも、またまた、大波小波の中を立ち向かいながら泳いでいくような青春期は続くのであった。
先輩と飲み会