【マダム路子・自分史(第14話)】女優になりたい15歳。夢の代わりに手に入れた「伝える力」

魅力研究家・美容家を目指した理由は、【魅力学®】と【魅力人育成】を広めたいからだ。どんな素晴らしい「コンテンツ」を持っていても、「伝える」能力がなければコンテンツは活かされない。「伝える力」。それを身につける能力が引き出されたのは、山脇学園の「演劇クラブ」での経験が影響しているのだろうと、ぼんやりイメージはしていた。しかし、この自分史の原稿を書き、「間違いない、そうだった」と確信に変わった。
2020/02/21

「高所恐怖所」という副産物

屋上に呼び出され、30余人の先輩たちに、山脇学園がモットーとする富士山のように気高い志を表現する「先輩へのお辞儀」をしなかったと激しく叱られた。

 

「礼儀」を軽んじた結果は、人間関係をも壊すことになると教えられ、多いに反省した。

 

母にこの一件を伝えると、「実れる稲は穂をたれる」といつも通り短い一言。

 

娘を見る母の目は確かなのだと私も素直に頷いた。

 

しかし、この時の屋上での経験は、私にもうひとつ「副産物」をお土産として与えた。

 

それは「高所恐怖所」になった事だ。

 

30余人の『黒制服集団』にジリジリと迫られ屋上の壁際まで追い詰められた。

 

見下ろすと彼方に運動場が見えた。

 

「もし、落ちたらどうしよう!」

 

あり得ない事だが、自分が落ちていくシーンが一瞬ではあるがリアルに脳裏を駆け、恐怖心が倍増した。

 

この恐怖心は成人してからも残った。

 

かなり年月を経たある時、NYの摩天楼と言われる超高層ビル。

 

ビルの突端はガラス張りでストレートに階下が見えるらしい。

 

その時、私は

「いつまでも高い所が怖いなんてビクビクしていてはだめだ!」

 

と突端まで歩いた。

 

実は、だれでもがそこまで行くわけではない。

 

100階以上の高さから下界を眺めるには、それなりの勇気が必要なのだ。

 

世界旅行に慣れている当時の夫でさえ途中で引き返し、胃の当たりを押さえていた。

 

でも私は辿りつき下を見た。

 

確かに足は少しガタついていたが、しっかり目をあけてストレートに下方を見た。

 

こうして一度は強引にも克服した「高所恐怖所」だったが、群馬県にある高い吊り橋を渡るときに再び恐怖に襲われたこともあった。

 

今は79歳になり、高いところに登ることもないので高所恐怖症を感じる場面もなくなった。

魅力を引き出すことの快感

こうした事件はあったが、それ以後先輩たちはさっぱりしたもので、近年問題になっている陰湿でしつこい「いじめ」に発展することは無かった。

 

また、高所恐怖所が後遺症のように残った私も、日常生活に差し障りがあるわけではないので「心を病む」ということもなく、しっかりお辞儀をすることを強く意識して行動した。

 

私を最初に演劇クラブに誘ってくれたユジンと一緒に堂下先輩のお宅に伺い、優しおもてなしを受けたこともあった。

 

恋心にも似た先輩への思いはやがて敬愛に変わっっていった。

 

中学2年生となった私は、女優になりたい夢がますます膨らんでいた。だが、その方面に進む方法が分からなかった。

 

“表現したい”といううずうずした思いは積極的に演劇クラブに力を入れることで発散した。

 

中学2年の文化祭では中高が別々に上演した。

 

中学部は、瓜から生まれた瓜子姫が主人公の日本民話「うりこひめとあまのじゃく」を公開した。

 

私はあまのじゃくを演じることになった。

 

男役で悪い奴、日常とのギャップが大きい難役だった。

 

私はあまのじゃくを演じながら、先輩の演出に対して納得できないという思いが募っていった。

 

意見が対立した結果、私が演出も兼ねることになった。

 

中学2年生が先輩の3年生を差し押さえることは、下剋上的な立位置を作った。

 

中学3年の上級生も、屋上事件は知っていたが、何も言わなかった。

 

いや、言えなかったのかもしれない。

 

不遜な態度で一時は伝統的な礼儀も無視する下級生だが、学園の中での知名度は抜群で、人気者という評価も受けていた。

 

1年程度の年齢差では弁舌にも強く説得力のある私に対抗できなかったのだ。

 

私は台本を自分なりに解釈して演出指導をした。

 

この時、幼い頃から親しんでいた歌舞伎、新派、新国劇、映画の中のスターたちの演技が知識として役に立った。

 

ひとり、ひとりに「セリフ回し」や「動き」をレクチャー。別々の個性が1つにまとまり、それが表現されたときの快感。

 

自分が演じて得る感覚とは違う楽しさ、「人を動かす面白さ」を感じた。

 

この時の快感が、人様の魅力を引き出すこと役立った記憶は温存され、魅力研究家として指導していく生き方につながったのかと思う。

瓜子姫とあまのじゃく

「宝塚」か「松竹歌劇団」に入りたい

うりこひめとあまのじゃく」の公演は大成功。

 

アンコールの時には先輩の演出として挨拶をしてもらった。

 

自慢話をする私に、母からまた短い一言。

 

「なんでも自分の手柄にしてはいけません」。

 

そうキツク言われていたのでそれを守ったのだ。

 

中学3年生になった時、私はそれまで自分なりに考えたある「決意」を母に話した。

 

その決意とは、中学を卒業したら「宝塚」か「松竹歌劇団」に入りたいという事だった。

 

35歳で難病のリュウマチに罹患した母を5歳の時から看病した。両親にとって娘は私ひとり。

 

寂しい思いをさせたという慙愧の念があるのか、母の体調が割と良くなってからは、私に対してはまさに「溺愛」で、我儘なことも受け入れ赦してくれた。

 

そんな私が女優を目指すと言い出したのだから、私の願望を認めてくれると思っていた。

 

しかし、母は即座に、そしてキッパリと答えた。

 

「だめですよ。高校までは卒業しなければだめ。」

 

強い意志を感じる言葉だった。

 

これほど言下に否定されるとは思っていなかった。

 

「どうして、じゃあお母さんもお父さんが望んでいるみたいに、私の将来は、良き家庭婦人になれって考えているの」

 

私が父に思い切り反発した文言だ。

 

「より良き家庭婦人」とは、高校を卒業したら、裁縫や料理を身につけ、お見合いをして結婚。

 

いやだ、いやだと私は首を左右に振り、母の言葉に抗った。

 

「高校に進学することと、より良き家庭婦人を目指すとか、お嫁に行くこととは別問題よ」

 

と、母は続ける。

 

「だって、私は女優になりたいんだもん、高校に行っている時間がもったいないじゃない」

 

ついに私は泣き出してしまった。

 

それでも母は、静かに私を見ているだけで娘の言い分に妥協もなく、態度の軟化もなかった。

「娘を見る母の目」の正確性

「路子、女優さんになりたいことを反対しているのではないのよ」

 

母は静かにこう言った。

 

母は富山県富山市の大きな八百屋の娘に生まれた。

 

八人きょうだいの長女。父親(私の祖父)は親分肌の気風のいい人で、誰にでも親切で面倒見が良かった。

 

そんな祖父の友人のひとりに芝居小屋を持っている人がいた。

 

その友人が芝居小屋の運営が巧くいかなくなった時に大借金をして、泣きついてきたという。

 

祖父は渋々ではあったが保証人になった。

 

結局友人は返済できず、借金は保証人になった祖父にかかり、八百屋の経営にも大きな被害が出たのだった。

 

おかげで一家は困窮した生活を強いられた。

 

確かにこの話は後年、叔父たちからも聞かされたていた。

 

ひとりの叔父からは「そのせいで養子に出された」と恨み節を聞いたことがある。

 

母も15歳で家事手伝いの奉公に出ている。

 

母が私に

 

「女優になりたいのなら、高校卒業ぐらいの知識や知恵を持った方がいいし、また他の道に進みたくなるかもしれないでしょ」

 

と静かに諭した。

 

言われてみれば思いあたる。

 

小学校の頃は、作文が小学新聞に入賞しただけで将来の夢は「作家」。

 

その夢は中学生になり、作文すら70点ほど。

 

日記を書いても続かずもろくも作家への夢はあえなく幕を閉じた。次なる夢が「女優」だ。

 

内心母は、またすぐに変心する娘の言い分を受け入れるのは危険だと思ったのだろう。

 

ここもまた、「娘を見る母の目」の正確性を認めざるを得ない。

 

だからこそ大学はともかく高校卒業資格は持たせるべきと判断したのだ。

反対され、余計に高まっていく女優志願

今、思えば母の思惑通りになった。

 

中学、高校と演劇への傾倒は深めていたが、結果的には女優の夢を断念し、当時は思いもしなかった魅力研究家を目指す事になったのだから。

 

納得感もないままではあるが母に説得された15歳。

 

その反動でミュージカル女優を目指したいという熱は余計に高まり、次々と行動を起こしていった。

 

まず、商業劇団に入団することから始めた。

 

高校生になった私は新橋の「あすなろ劇団」の試験を受けた。

 

試験はセリフとパンパントマイムだったがそんなのはお手のものだった。

 

その日受けた数人のメンバーは全員合格だった。

 

劇団に所属しながら、ミュージカル女優に必要と思われる稽古事を両親に認めてもらった。

 

私は劇団、稽古事の合間に山脇学園の高校生として、超多忙なタスクを自分に課していた。

 

過激なほどの情熱に任せた日々は、次第に私の身体と心のバランスを崩れさせていくのだった。