つまり、そのテクニックを知れば、速く読めるものと考えるのです。
そのような解釈や考えは、もちろん間違いではないのですが、そのようなテクニックとして該当するのは、拾い読みや飛ばし読みしかありません。
つまり、速読法とは、拾い読み飛ばし読みのことだとなるわけです。
しかし、すべての文字を順に読んで、かつ高速で理解していくテクニックはありません。
はっきり申し上げて、ないのです。
ないにもかかわらず、「速読法」という言葉は、あるかのような印象を与え、そのようなテクニック、知識、要領を獲得することを期待させてしまいます。
そして、実際にはないのですから、「速読法」という言葉は、期待はずれの信用されないものになってしまいます。
分かり切ったことを言いますが、「読む」とは、文字を読んで理解する行動です。それは、読んで理解する能力がなければ、できない行動です。
その理解能力は、私たちが記憶にもない幼いときから、話し言葉を覚えることから始まって、文字を覚え、たくさんの文章を読むことで発達してきたものです。
その長年かけて身につけてきた能力が、単なるテクニックや要領で、突然、優れたものになるということは有り得ないと考えるのが、理性的な判断ではないでしょうか。
もちろん、読書能力の発達を妨げているクセや、生理的障害があって、それを取り除くことによって、ある程度すっと速く読めるようになるということはあります。
しかし、それは、読書能力を本来の状態に回復させたということであって、速く読むテクニックと言うべきものではありません。
私は、速読法という言葉の代わりに、「速読脳開発プログラム」という言葉を用いてきました。
拾い読みや飛ばし読みでなく、文章を高速で読んで理解する能力という意味で、「速読脳」という言葉を創って用い、また、テクニックではなく、能力を開発していくトレーニングだという意味で、「開発プログラム」という言葉を選んで、用いてきたわけです。