【毎分10万文字・誰でもできる速読脳トレーニング】6.速読法の「法」が引き起こす誤解

ここで用いられている「法」の意味は、方法ということです。ですから「速読法」の意味は、速読するための方法ということになります。したがって、速読法と聞くと、それは「文章を素早く読んで、その要点を掴むためのテクニック」だと解釈します。
2020/03/22

速読脳開発プログラム

つまり、そのテクニックを知れば、速く読めるものと考えるのです。

 

そのような解釈や考えは、もちろん間違いではないのですが、そのようなテクニックとして該当するのは、拾い読みや飛ばし読みしかありません。

 

つまり、速読法とは、拾い読み飛ばし読みのことだとなるわけです。

 

しかし、すべての文字を順に読んで、かつ高速で理解していくテクニックはありません。

 

はっきり申し上げて、ないのです。

 

ないにもかかわらず、「速読法」という言葉は、あるかのような印象を与え、そのようなテクニック、知識、要領を獲得することを期待させてしまいます。

 

そして、実際にはないのですから、「速読法」という言葉は、期待はずれの信用されないものになってしまいます。

 

分かり切ったことを言いますが、「読む」とは、文字を読んで理解する行動です。それは、読んで理解する能力がなければ、できない行動です。

 

その理解能力は、私たちが記憶にもない幼いときから、話し言葉を覚えることから始まって、文字を覚え、たくさんの文章を読むことで発達してきたものです。

 

その長年かけて身につけてきた能力が、単なるテクニックや要領で、突然、優れたものになるということは有り得ないと考えるのが、理性的な判断ではないでしょうか。

 

もちろん、読書能力の発達を妨げているクセや、生理的障害があって、それを取り除くことによって、ある程度すっと速く読めるようになるということはあります。

 

しかし、それは、読書能力を本来の状態に回復させたということであって、速く読むテクニックと言うべきものではありません。

 

私は、速読法という言葉の代わりに、「速読脳開発プログラム」という言葉を用いてきました。

 

拾い読みや飛ばし読みでなく、文章を高速で読んで理解する能力という意味で、「速読脳」という言葉を創って用い、また、テクニックではなく、能力を開発していくトレーニングだという意味で、「開発プログラム」という言葉を選んで、用いてきたわけです。

「速読脳開発プログラム」は「道」と言える教育

このように考えてくると、今、私の教室で指導している「速読脳開発プログラム」は、「速読法」ではないことになります。その内容に適した言葉を、従来の語彙から選ぶとすると、「速読術」ということになりそうです。

 

長年にわたって鍛錬し、普通の人では考えられないようなことをやってのけるという点で、確かに「術」に近いものがあると思います。

 

しかし、私は、ちょっと違和感を感じます。なぜかというと、「術」の場合、修行として行っている内容が不明で、師匠がいる場合もあるでしょうが、多くは個人的な工夫でなされるという印象があるからです。

 

「速読脳開発プログラム」の場合、傍から見ると「術」と呼ばれるほどの能力ですが、その能力を開発する原理も、トレーニング課程も、はっきりしています。ですから、一人一人に合わせた指導ができます。

 

この意味で、「速読脳開発プログラム」は、「速読術」というより、「速読教育」だと、私は思っているのです。ただし、従来の教育と異なるのは、その内容です。

 

従来の教育では、ほとんど、知識を授け、それを覚えさせること、あるいは考えさせることがその内容ですが、「速読脳開発プログラム」では、自分の能力を開発すること、特に眼の能力や理解する能力を刺激し、発達させることがその内容になります。

 

そこでは、知識を多く知ることではなく、柔軟な眼や身体、幼い子供のようなまっすぐな気持ちのほうが大切になります。

 

このとき、たとえば、考え過ぎて否定的になる心癖を改めて、肯定的に物事を捉えるように自分を変える必要が出てくることがあります。

 

あるいは、いつも周囲を気にしていて心底から集中できない自分を変える必要が出てくるかもしれません。

 

要するに、自分を改善する必要が出てくるのです。

 

この点では、この「速読教育」は、自分を見つめ、改善し、人間としての生き方を追求していくことから、「速読道」に近いような気がしています。

 

早読みのテクニックでは、10万字/分の読書はできません。

 

「道」とも言えるほどの、自分の能力を高め、人間性を深めて初めてできるのが、10万字/分読書だと、私は思っています。