ただ学生のとき、一度だけ、読む速度について悩んだことがありました。
友人とお互いに紹介し合って本を読んではいたのですが、彼のほうが読むのが速いのです。
あるとき、速度を測って比べてみると、1.4倍でした。今から考えると、わずか1.4倍の差なのですが、読書の量としては、ずいぶん差がつくと感じました。
アメリカ式速読法を教えてくれたのは、その友人でした。
彼がアメリカ式速読法を練習したわけではなかったのですが、読むのが遅い私に本を紹介してくれたのです。
その本で少し練習してみましたが、私には効果を得ることはできませんでした。
その後大学院修士課程を修了して、大学に助教として勤めたわけですが、研究には文献を読むことが不可欠です。
ところが、読みたい文献を読みたいと思っても、全部どころか一部分を読むにも時間がかかります。
結局、論文の前書きと結論を読んでおしまいにするしかありません。
もし速く読めるなら、実験や考察欄も読むことができ、その論文の問題点を把握でき、ひとつの論文からもっと多くのことを学ぶことができたはずです。
あるいは、もっとたくさんの論文に目を通すことができたと思います。
この研究者時代に、思うように文献を読めなかったことは、私が速読の道に進んだ理由のひとつになっています。
おそらく、今も、論文や専門書を読む速度が遅いために、思うように研究が進まないと嘆く研究者は、私の属していた工学の分野に限らず、かなりいらっしゃるのではないかと思います。
しかし、ほとんどの人は、速く読むことをあきらめているように思えます。
というよりも、「速く読めるよりも、まず理解する力をつけなくては」と考えます。
なぜなら、理解できなければ速く読んでも意味がないですし、理解する能力によって、読む速度が決まっていると無意識的に考えているからです。
実はこれが、読書心理学が始まって以来、培われ、引き継がれてきた考えなのです。
この考えからは、読書速度を開発するアイデアは出てきません。
前節で説明した考えは、
「 読書力 = 理解力 」
という発想が基本にあります。
この考えのもとに読書力を伸ばそうとするなら、理解力を高めるためには、まず言葉や漢字を覚えなければならず、たくさん知識を獲得しなければならず、いろいろな経験をしなければならず、想像力や直観力などを高めなければならないことになります。
これでは、いくら時間があっても足りません。
しかも、たくさんの知識を得るにはたくさんの本を読まなければならないわけですから、この論理は、「読書力を上げるためには読書力を高めなければならない」という自己撞着に陥っています。
つまりこの発想からは、読書力を高める方法は出てこないことになります。
一方、知的作業の現場では、本やネットの情報を大量に読まなければならず、仕事の能力は、読む速度で決まると言って過言ではありません。
つまり、読書力を考えるとき、理解力はたしかに重要ですが、同じように重要なのは読書の速度なのです。
実際に読書を活用する立場からは、
「 読書力 = 理解力 + 速度力 」
と考えなくてはなりません。
もちろん、ここでいう速度力とは、速く読む能力のことです。読書力は理解力と速度力が大きな要素です。
読書心理学や教育学も、発想を転換しなくてはなりません。このような発想の転換は、ある意味では時代が発展してきた結果の要請と言えます。
教育が行き届かなかった時代には、一人一人の理解力に差があったと考えられます。
しかし、現代は、すでに教育制度が十分に整い、インターネットで新しい情報や知識を、誰でもすぐに得ることができます。
そんな時代ですから、一定レベル以上の理解力は誰しも持っています。
もちろん、一人一人の理解力に差があることはたしかですが、その差は、個性の差に近いものです。
ましてや、知的作業の現場では、その組織を構成する全員が、それなりの試験を通過してその組織に所属しているわけですから、一定レベル以上の理解力はすでに誰しも持っています。
従来の教育制度が培ってきた理解力は大変高度なものですが、その理解力だけでは、この競争社会のなかで生きていくことも、ビジネス社会の中で勝ち残っていくことも困難になってきたのです。
現代という情報化社会の中で、求められているのは、情報処理の速度です。
もちろんコンピューターや通信機器が発達し、情報端末は極めて便利になりました。
道具の情報処理速度は極めて早くなってきています。しかし、その道具の情報を処理するのは、人間です。
人間の能力としての速度力が求められているのが現代と言えましょう。
先進国では、今、どこでも速読法が模索されています。それは、このような時代の変化によるものと言えましょう。