たとえば、自動車は、ハンドルとアクセルとブレーキが分かれば、誰でも動かすことができます。
しかし、慣れていませんから、いつ塀や電信柱にぶつかるかもしれず、おそるおそる運転することになります。
走る速度は、せいぜい時速10キロ程度でしょう。
つまり、自動車が持っている走行能力は潜在したままで、引き出すことができないわけです。
しかし、教習所に行って、運転の仕方を習得すれば、時速100キロで走ることは、誰にでもできることです。
運転の仕方を身につけることで、自動車の持つ走行能力をそのまま引き出すことができるわけです。
そのときの速さは、桁違いになります。
一方、読書について考えてみると、書かれている文字は分かりますから、誰でも読むことができます。
書かれている内容も多くは理解できるので、「自分は読書できている」と思い、これを疑うことはないはずです。
しかし、このレベルは、自動車の運転で言えば、その基本であるハンドルとアクセルとブレーキの使い方を知っただけと同じです。
本も自動車と同じく、人工的に作られた道具です。道具を使うというのは、道具と一体となることです。
ハンドルのまわし方を知り、アクセルとブレーキの踏み方が分かっただけでは、それらを意識的に考えながら操作することはできますが、自動車と一体となっていません。
一体となるということは、瞬間瞬間で変化していく自動車の置かれた環境を、考えることなく、自動的に手足を動かして運転できることです。
目や耳から入ってくる、自動車の環境情報に適応して、適切に判断し、ハンドルなどの運転装置を自動的に操作できることです。
読書でいえば、さまざまな文字がランダムに並んでいる行と、その行が長さもさまざまなまま並んでいるページを、眼が自動的に文字を追って読み取っていく機能が自分の中に出来上がっているかということです。
ほとんどの方は、そのような機能が自分の中にないと認めざるを得ないと思います。
これが、私の言う「文字を読み取るトレーニングをしていない」という意味なのです。
ましてや、理解する機能についてトレーニングする機会は、ほとんどないと言っていいでしょう。