まったく逆で、「速読脳」を開発して速読した場合、小説は映画を見ているかのように楽しめるのです。
テレビ番組で小説を読むのを実演した受講生のTさんは、小説の内容に感動して涙を流していました。それを目の当たりにした司会者のIさんが、驚いて即座に受講を始めたのは愉快なエピソードでした。
なぜ、「速読脳」を開発すると、小説をもっと楽しく読むことができるのでしょうか。
それは、イメージ力が向上するからです。
さきほど、「速読脳」を開発すると右脳が活性化されることを、fMRIの測定例を示して説明しましたが、右脳の主な機能は、イメージ力であることをご存じの方は多いと思います。
イメージ力というと、見たものを絵のように想い浮かべる能力と思いがちですが、それだけではありません。
絵のように想い浮かべる能力は視覚的イメージ力ですが、視覚だけでなく、声や音を思い浮かべる聴覚的イメージ力、においを思い浮かべる嗅覚的イメージ力、味を思い浮かべる味覚的イメージ力、肌で触れた感覚を思い浮かべる触覚的イメージ力、気持ちや雰囲気を思い浮かべるイメージ力があります。
これらのイメージ力をフルに活用して小説を読むので、今までよりももっと楽しむことができるのです。
受講生が小説を読んだときの体験談を紹介しましょう。
集中して訓練した後に、視覚イメージに大いなる変化が見られた。
読書中に浮き上がってきた1コマ、1コマの絵が、読書後、ひとつの流れとなって、再び楽しむことができるのだ。
その時には、色調はもちろん、その場の空気、花や草の香、土の感触、登場人物の声やその歩きぶりといったものが、まさにその場に、私がいるが如くの存在感を持って迫ってくる。
私は、そのとき、そのひとつの映画を作る監督であり、アングルを決めるカメラマンであり、それを楽しんでいる観客でもある。
よくよく考えてみると、私自身の人生体験にもとづいて形づくられたイメージとも思われるが、文章から浮き上がってきた家、その間取り、庭の設定、木の大きさや色調、あるいは、そこらを歩きまわる刑事やヒロインは、見たことも出会ったこともないのだ。
だのに、あたかも、手に触れたことのあるものとして、また、親しく交わり、話を交わしたことのある人物の如く、迫ってくるのである。
ここにひとつ、例を挙げてみたい。
斎藤栄の『オロフレ峠の殺意』の1シーンだが、文章はこのように始まる。
夜だった。このあたりの雪は消えているが、北海道は未だ冬の気配が残っていた。
朝日不動産営業部主幹の浅沼寿郎は、かなり急な傾斜を、ゆっくり踏みしめながら、自分の車がおいてある場所へ戻ろうとした。
そこはカルルス温泉の入り口にあたる。
道路が丁度、三叉路に分かれている。
〈おや?〉
と、そこで浅沼は首をかしげた。
左手の方角………積雪の深いオロフレ峠への登り口近くに、一台の国産大型車がとまっているのが目についた。
〈さっきまではなかったのに………〉
浅沼寿郎が不思議に思ったのは、峠への路は遮断されているから、車を運転して来た者は、当然、カルルスにおりて来なければならない。
それなのに、すぐ、そこの家にいた彼に、人の気配が感じられなかったからだ。
と、このとき、黒い影が闇に浮かびあがり、その車のトランクをあけている。
(徳間書店『オロフレ峠の殺意』より)
このようにして続く第一章は、読者をぐいぐいとその世界に引き込む。
事件の発端になるこの峠道のシーンがありありと目の前に浮かぶ。
遮断されている峠への道を異物を荷台に載せて、もくもくと登る男。
そのリンとした空気と自転車のきしむ音。
何かを感じて後を追う浅沼。
好奇心と正義心の交錯する中年男の表情が闇夜の中で、クローズ・アップされる。
人気のない峠道での二人の男の行動は、次に起こる事件を暗示する。
今回は推理小説のストーリー性うんぬんを論じているわけではないので、文章から浮かび上がるイメージについてのみ述べるが、作者がその場所まで出かけ、取材したと思われるシーン、そして作者の文章の練りが、即、速読をしたときのイメージの鮮明さ、強烈さにつながる。
そこで、読者は、まさに作者の原イメージを体験したといいきれる。
裏がえしていうと、作者の乗り切れていない内容、練り切れていない文章からは、感動はうけないし、イメージもかなり希薄となってしまう。
これは翻訳ものだが、刑事コロンボ・シリーズの『カリブ海殺人事件』を読んで、ひとつのことに気がついた。
テレビ画面を意識して書いたと思われる歯切れのよい文章だが、テレビとの間に、決定的な差があったのだ。
それは、テレビの画面から送られてくる絵には、においもないし、味もない、ということだ。
受信者は、まさに受け手で、ただ、ただ、画面を甘受しているのみなのだ。
現実の場面をカメラがとらえ、そのありのままを伝えているにもかかわらずだ。
その点、文章をとおして浮かび上がった画面では、カリブ海のエメラルとグリーンの海の色が潮の香とともに迫って来た。
コロンボのよれよれのレインコートからは、ムンムンした汗のにおいがたちのぼっていたし、殺人者である歯科医のまわすドリルの音も、不気味に耳にひびいてきた。
その、どれもこれも、リアリティに満ちたもので、まさに五感で読書を楽しんだといえる。
こういう読書で、音読はしていないのか、と問われると、実はすごくとまどう。
なぜなら、もう、遠い昔の感覚となってしまったものを呼び起こせといわれているようなものだからだ。
いまとなっては、すっかり失念してしまっている感覚といえる。
この問に答えるべく、じっくりとふり返っていまの読書を分析してみると、音読の感覚はまったくない。
これは断言できる。
M・S(女性)
まとめると、「速読脳」が開発された人の読書には、次のような特徴が見られます。
⑴ 文章内容を直接、明瞭なイメージに変換して理解していること、
⑵ そのイメージは、視覚的イメージにとどまらず、五感すべてのイメージとして、想起されてくること、
⑶ そのイメージは、読書後に、すべてを順に楽しめるほど、鮮明に記憶されていること。
「速読脳」が開発されたとき、小説はそれまでよりももっと楽しんで読めることが理解していただけたことと思います。
このような人に、逆に、心の中で音声化して読んでもらうと、イメージが浮かび上がりづらくなると感じます。
これは、イメージが浮かび上がる読書では、右脳を使っていることを示していると思われます。