世界が翻弄される、未曾有の状況
ミニ講演(娘の中原晴美と)
罹患を防ぐ多くの企業倒産、解雇、大規模イベントの中止、教育機関の休校。
日本は、東京オリンピック・パラリンピックの行く末も世界の注目の的となっている。
私自身の活動もキャンセルが続いた。
国際魅力学会主催『JapanアクターズTV』の公開収録中止。
日本美容専門学校の入学式と、卒業式の祝賀パーティでの講演中止。
歌謡ショーのイベント内では「戦争を語る」講演を予定していたが、それは延期となった。
こうした状況は個人の生活にも大きく響き、世界中で不安と混乱が広がっている。
混乱や恐怖心を煽るのは終息の日がいつくるのか不明なこと。
私たちには、状況の把握は情報が頼りである。
しかし、各国、各所によってコロナウイルスに対する取り組みに温度差があるため、情報も異なるし、その間を縫って悪意あるデマが流布される。
市場から消えたマスクを買い占め高額転売。トイレットペーパーの買い占め等々。
オイルショック時には我が家でも、修業中の若い美容師たちが、段ボール一杯にトイレットペーパーを買い込んできたのに驚いた記憶がある。
こうした大騒動につながってしまうのも「情報」が間違っていたり、歪められ、そこに多くの人たちの思い込みもプラスされ広がってしまうのだろう。
定かでない情報とはいえ 毎日見て、聞いている間に、この状況はあの時と似ていると感じられるようになった。
それは、第二次世界大戦の戦時下の5歳の終戦までの日々。
つまりこの自分史がはじまった時代と共通すると思えてきたのだ。
戦時下時代の情報といえば、新聞、ラジオ、それと隣近所で回す「回覧板」だけ。
現代の情報量と比べれば比較にならないほど少ない。
それでも似ていると思うのは、「人の口」による「噂」という情報伝達の拡散力、スピードは迅速極まりなかった。
定かではない情報に各人の憶測が上塗りされ、事実が捻じ曲げられ、ついには暴動までにつながる事件に発展することもある。
たとえ、情報が少なくても、いや、少ないからこそ、新たな情報を求める気持ちが強くなるのは人間の本能かも知れない。
信頼できる情報
コロナウイルスの噂を超えてユーチューブ撮影
戦時下は灯火管制で夜は電気の笠に黒い布をつけて手元だけを照らすようにした。
食料品は量も制限された上での配給。
常に飢餓状態で肥満した人など見かけなかった。
金銀、ダイヤなども没収。
布も糸も少なくなり衣類は古着のリニュア―ル。
現在、世界のスーパーマーケットでの買い占めも先鋭化してきている。
食料品はあっても流通機能が働かず消費者に届かなければ、買い占めせざるを得ない心境になっていく構図が見えてくる。
ただ、今回のコロナウイルスによる世界への影響と根本的に違うのは、戦争は人間が引き起こした現象で他国との闘いだ。
しかし、コロナウイルスは細菌という人類共通の敵。
だから全世界の人類が国境を超え一丸となり、目に見えないコロナウイルスという新型の細菌撲滅に向かわなければならないと思う。
人類の知恵はついに人間の働きを再現できるAIを作りだせるほどの知識も知恵も保有しているのだ。
また、様々な恐ろしいウイルスを撃退してきた歴史も重ねてきている。
確かに、何時までに騒ぎが収束され、本当の意味でウイルスの活動が終息を迎えるのかが、わからない不安はある。
しかし、大きな被害と痛ましい犠牲を出した戦争でさえ、終息の時を迎えた。
ウイルス菌を超える、原爆という化け物的科学物質まで生み出した能力をもつ人間が、ウイルス菌の存在を削除できないわけがないと思う。
今、個人の私たちの生活はどうしたら良いのか。
熟慮に熟慮を重ねている。
私79歳、夫76歳「後期高齢者」だ。
コロナ菌でなくても雨風の強い日は、外出を控えるようテレビでも警告される対象者だ。
ましてや、コロナウイルスの罹患では老人が亡くなる例が多く報告されている。
心して行動しなければならない。とは思うのだが、ミニ講演を実施した。
もちろん、ご参加の方々も納得しての開催だ。
私たち「後期高齢者」である夫婦の現在は、コロナウイルスを細心にして最大の注意と準備をし、人様を巻きこまずに動ける範囲で行動をしていくと自分に言い聞かせている。
そして重ねて言うが、こんな時こそ、間違った情報に惑わされない。
そのためにも信頼すべき人たちとの交流が大切だと思う。
みなさんとの交流の中で正しい情報だけではなく、悩みの解消、自分の活動の方向性なども率直に語りあいたい、周囲のススメと協力を得てマダム路子のオンラインサロン魅力研究所を開設。
高校を卒業した私は、
高校2年のときに有志でお笑い劇を演じました。 宝塚に憧れて男役で友人たちを笑わせました。
さて、高校生となった私が、ミュージカル「女優」になることを夢みて、稽古事の合間を縫って学校の授業に出席する熱の入れようでした。
高校を卒業した私は、劇団通いに専心できると思い頑張った。
私の入団した劇団は山脇学園のすぐ近くにあった。
劇団員はみなプロを目指す若者たち。
劇団主宰者はメディアにも出演している有名な方だったので、主宰者と共に私も取材・紹介された経緯があった。
第1回の劇団の芝居がこれまた、母校近くにある「赤坂公会堂」だった。
この芝居に主役として舞台に立つことができた。
それなりに受けたとの満足感で楽屋に戻った。
座長の丹下キヨコ氏に呼ばれ意気揚々笑顔で師匠の前に立った。
しかし、座長の顔は厳しく笑顔などのかけらもなかった。
それどころか、劇団仲間が全員いる中で舞台での態度にひどくお叱りを受けた。
私は叱られる理由が理解できず、それでも謝った。
誰も声をかけてくれなかったので、私はひとり赤坂公開堂の楽屋口から夜の舗道にでてゆっくりと歩き始めた。
涙が流れ地面に落ちた。
孤独だった。
しかし、不思議なことに寂しいとは思わなかった。
私の心の中にもひんやりとした氷雨が注がれ、何かが流されて行く気分を抱いたまま、暗い暗い道を自宅に向かい歩き続けた。