コロナ騒動が終るまでは
日本は二度と戦争をしないという条約を結び、憲法改正を云々されながら75年の間戦闘なき時を過ごしてきた。
しかし、公平な視野で世界の状況を見渡せば、第三次世界大戦ほどには至らなくとも、現在もどこかの国で戦争が行われている。
自国が平和だから深刻な状況、悲惨な被害者に対しても対岸の火事のような感覚でいたのではないだろうか。
そこに起こったコロナ菌による世界規模の深刻な被害拡大。
そして、襲い来る敵は人間ではなく、正体も見えない原因もつかめない謎の【菌】。
心身に不安や恐れを感じつつも、個人でできることは「緊急事態宣言」が述べている内容をまずは守るしかない。
昭和20年の終戦までこんな言葉が流行していた、『負けられません、勝つまでは』。
戦勝を信じようが信じまいが、空腹に耐え、家屋が揺れるような空爆にも耐え、すべて我慢、ひたすら忍耐という日々。
心の底ではこの戦には勝ち目がないと感じていても口にすることもできない。
そんな大人たちに囲まれながら幼児期を過ごした。
「自粛する」とは、言い換えれば「我慢する」「忍耐する」ことだ。
それには出来得る限り「心身の健康」を強靭にして、菌に負けないカラダで、解決を待つしかないと考えている。
「コロナ騒動が終るまでは死ねない」と考えている今日、この頃である。
美空ひばりさんのオーラ
さて、自分史「あの日、あの時」に戻ろう。
中学時代から高校卒業後まで、私の将来の夢は女優になる事だった。
中学卒業前、東宝劇場が運営する「宝塚」か、松竹劇場運営の「松竹歌劇団」のテストを受けたいと母に相談したが、きつく反対された経緯があった。
そこで、私が考え、両親にも了承を得たのは「学業」と「女優になるための修業」を両立させることだった。
初めは児童劇団のテストを受け入団。実は全員が入団できる仕組みだった。
劇団は新橋駅の近くだった。
赤坂の山脇学園から通った。
確か、劇団名は「あすなろ」だったと記憶している。
現在も同じ名前の劇団もあるが無関係だと思う。
発声、パントマイム、演技指導を受けた。
ときには、その他大勢での映画やテレビドラマにも駆り出された。
東宝映画の「ジャンケン娘」は、当時人気絶頂だった美空ひばり主演。共演は江利チエミ、幸村いずみ。
私は女子学生のひとりの“ガヤ”として参加。
長時間待たされうんざりし始めた頃、美空ひばりさんが私たちエキストラの前を笑顔でスーと通り過ぎた。
その瞬間、説明がつけられない存在感に圧倒された。鳥肌が立つようだった。
その時の皮膚感覚は今も鮮明に記憶に残っている。
ひばりさんは小柄で、絶世の美少女というわけでもない。
しかし、ひとつひとつの所作に惹きつけられた。
美空ひばりさんの歌声を聴いたのはラジオだった。
美空ひばりさんの歌声はまるで、まだ戦争の傷が癒えていない日本人に「エール」を贈るように、涙したり、陽気にさせてくれた。
9歳頃のデビューだったと思うが、天性の美声と巧者な表現力にスター街道まっしぐらだった。
歌のヒットは続き映画にも進出していたので、ひばりさんの成長に合わせて、ほぼ同世代の私たちもレコードを買い、映画を観に行った。
その大スターを目の前にして一緒に撮影できたことだけでも満足だった。
私たちエキストラはジャンケン娘の周りできゃあきゃあ騒ぐお友達という役どころ。
長い待ち時間を経て、カメラの前で撮られた時間はどのくらいだっただろうか。
後日、映画を観に行った。
それらしき場面もあったが、結局私の顔は一瞬も映し出されること無く映画はラストシーンを過ぎ、終わった。
16歳のとき、映画のナレーターに採用された。
それは、映画監督、脚本家で日本の時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれた伊藤大輔監督の【王将一代】だった。
新国劇の座長「辰巳柳太郎&島田省吾主演」に私は、声だけの出演をしたのだ。
確かに私の声でナレーションが入っている部分がしっかり映像の中に流れていた。
名前も書かれたかどうかもわからないし、ギャラをもらったかどうか、記憶もない。
そんな私を監督、助監督が誘ってくれて、後楽園の遊園地で遊び、その後にご馳走になった。
16歳の女優志願の女子高生が伊藤大輔という名監督の元でナレーションを務めた事へのエールだったのだろうか。
お二にともその後、監督になった。
しかし、時を経ずしておひとり亡くなられたと伺い、悲しかった。
喜劇界のレジェンドとの出会い
その後、劇団の公演が決まり、私も役が付き、前売りのチケットを親に買ってもらい親戚、友人まで招待していたのに、芝居は中止になりチケットの前払いした返金もなかった。
不信感が募り退団をしてしまった。
元来、ミュージカル女優を目指す私は、いくつもの稽古事にも通っていた。
ジャズダンス、タップダンス、日本舞踊、三味線などで日々のレッスンに追われていた。これらのレッスンの成果を活かせるのは、ステージしかない。
ステージに立つには劇団に所属していなければならない。
モデルとかコンテスト出身者になるには外見的なクオリティが高いので、なかなか難しい。
ジャニーズ、吉本興業、ホリプロなどもまず、ステージに出演することが基礎にある。
ステージに立てる技術力を切磋琢磨出来るからだ。
学業と稽古を両立し継続していくには、体力も気力も万全でなくてはならない。
再び劇団に入団するには、通うだけで体力を消耗する遠い場所は選びたくなかった。
そんなとき友人から山脇学園近くに、新たに開講された劇団が、団員を募集しているので受けてみないかと誘われた。
主宰は喜劇界のレジェンド丹下キヨコ、元宝塚男役女優の宮城千賀子。
劇団の所在地は中村メイコさんがまだ独身の頃に暮らしてらした実家の庭に建てられた建物だった。
一緒にテストに参加しないかと誘われた。劇団名は「エトセトラ」。
テストを受けた人は自分が辞退しない限り、この劇団でも全員合格。殆どが20歳を過ぎた大人の中に高校3年生の10㈹は、私と友人だけだった。
年は若いが、当時としては二人とも背が高く大柄で、その上、物おじしない目立った存在だったと、後にマネージャから言われた。
丹下キヨコさんも宮城千賀子さんも共にタレントとして多彩な活動をしていた。
劇団の所在地が中村メイコさんの実家敷地ということもメディアに伝わり、すぐに芸能誌が特集取材する事が決まり、私は、劇団員の若手として丹下キヨコさんと撮影された。
この劇団には、後に世界的なヒット曲「上を向いて歩こう(坂本九)」の作詞をした永六輔さんが講師として指導に来たこともあった。
劇団員にはならなかったが、まだ駆け出しのシャンソン歌手で作家志望の戸川昌子さんも見学にきていた。
「エトセトラ(等々)」の劇団名が象徴しているように、きちんとした芝居のメソッドはなく、その場で寸劇をつくり互いに批評したりする稽古だった。
丹下キヨコさんはウイスキーの水割り片手に、喜劇仕立ての芝居の稽古をつけてくれた。
そのとき、丹下さんはなぜか私に新国劇で有名な演目「国定忠治」の男役を私に演じるよう命じた。
「~赤城の山も今宵限り!可愛い子分のテメエたちとも別れ別れになる門出だ!カラスが鳴いて南の空に飛んでいかあ」とキメル私。
すると、子分役の男子たちが親分といって声を揃えたところで、捕り手に囲まれチャンバラが始まるという流れだ。
このステージは、戦争末期の明治座で両親と観た経験があった。
新国劇の演者は辰巳柳太郎で当たり役。
声量、声質に優れた口跡の良さ。
リズミカルでわかりやすいセリフ回し。
名場面として知られ子供心にも「かっこいい」と惚れ惚れした。
真似事だが、演じさせられるのも悪くなく、男子たちをバッタバッタの立ち回りも楽しいと思った。
50余年ぶりに共にエトセトラ劇団に入団した友人と同級会で再会。
アドリブの可否
嫁に行くまで暮らした実家の庭での両親。
しかし、これが自分の求めている演劇なのだろうか。
一緒に入団した友人はすぐに退団してしまっていた。
そのうちに劇団の公演が決まった。
筋書きは忘れてしまったが、若い夫婦が主役で私が妻役、夫は後に漫才トリオを結成した人だった。
ステージは山脇学園の近くにある赤坂公開堂。
母は、杖をつき家族に支えられれば何とか歩けるので両親、兄弟、親戚も見にきてくれることになっていた。
あまり練習時間はなく、セリフの量は一番多い私は必死にセリフ暗記に精をだした。
こんなに、長いセリフを暗記するのは、山脇学園50周年記念文化祭「若草物語」のステージ以来の事で必死だった。
いよいよその日がきた。幕間からそっと覗いてみた。
ステージに立つ人間にとって、空席が目立つ客席ほど寂しいものはない。
客席は満席だ。
「お母さんにも楽しんで、喜んでもらおう」と深く息を吸い込み、自分に気合を入れてステージに立った。
夫婦がケンカをして論争になる流れだったのだが、勢いよく覚えたセリフを早口で演じていたのだが、急にセリフを忘れてしまい続きが出てこない。
頭が真っ白になり、夫役を見るのだがフォローはしてくれない、そこで、私は突然思いついたアドリブを言った。
するとどうだろう、観客の大笑いを誘いそこで忘れていたセリフを思い出し拍手喝采。私はほっとした。
基本は喜劇なのでこれだけ受ければ、丹下さんや見学にきていた先輩の喜劇人の先輩からも褒められる事はなくてもセリフを忘れてしまったことは許してもらえるのではないか。
あれだけ受けて、その場を切り抜けたので叱られはしないだろうとタカをくくった。
楽屋に戻ると、丹下キヨコさんが怖い顔をして私の前に立った。
「なに、さっきのあれは」と仲間全員がいる前で大きな声で怒りの声が飛んできた。
「あのね、笑いにはいろんな種類があるのよ。あの笑いは受けた笑いじゃないよ、セリフを忘れたアンタのアドリブに対しての失笑だよ。それが分からいのかい」
私は、丹下さんの怒声にみるみる涙が込み上げ「すいません」と謝ったが、フンと横を向いてしまった丹下さん。
誰ひとりとして私に声をかけてくれない。私は一礼して、ひとり赤坂公会堂のビルをでた。
涙が流れて止まらない。確かに丹下さんの言うとおりかもしれない。
でも、プロだってセリフを忘れてその場を取り繕うことはよくある。
そんなステージも見たことがあった。
セリフを思い出すまで絶句したままでいいのか。
喜劇なら笑ってもらうのが目的のはずだ。ひとり歩きながら、私の気持ちは一歩歩くごとに「劇団エトセトラ」から遠ざかっていった。
後年私が初めて番組のMCに起用されたTV番組に丹下キヨコさんが出演。
あの日の夜の楽屋のデキゴトを伝えると
「あのときの高校生かい」と大笑いしたのであった。