【マダム路子・自分史(第19話)】「魅力学の伝承者になる」と決めた日

1959年。19歳になった私は、有楽町駅から5分ほどの日劇に行った。 日劇は戦前の建物。昭和30年代はエルヴィス・プレスリーの影響をうけたロカビリー旋風が吹きまくり、「ウエスタン・カーニバル」劇場の周囲を十重二十重にファンが並び開演を待つ風景は有名だった。
2020/06/17
戦前の日劇

私も、父や兄と何回か観に行ったことがあった。

 

劇団に通っていた頃、東宝映画制作・出演美空ひばり・江里チエミ・雪村いずみのアイドルによる「ジャンケン娘」に“その他大勢”で出演した。

 

しかし、その映画シーンの中に私は映し出されていなかった。

寝たきりから歩けるまでに回復した母と

日劇の五階

日劇の横側から5Fまでエレベーターに乗った。

 

ほんの僅かだが、ステージで演技をしたことも経験もある。

 

幕が上がる前の張り詰めた空気。ワクワクする以上に不安でつぶされそうなほどの胸のざわつき。

 

トイレに何度も行き、やたらに喉が乾いた。

 

唾をのみ込むようにして自分のセリフを繰り返したりした当時の記憶が脳裏をかすめた。

 

エレベーターを降り、楽屋口に行くと受付があった。「丸尾長顕先生に面会に来た」と伝えると、先生から伺っていますよと人の良さそうなおじさんに言われてほっとした。

 

中に入って待っていてくださいとおじさんに言われ、ドアが開きっぱなしになっている部屋に入った。

 

同じ事務机が3つ並ぶ何の変哲もない室内にひとつだけソファが置いてあった。

 

そこに座り部屋の隅々までをなめるように見渡した。

 

左横の机上の壁に威厳のある男性の写真がかけられていた。

 

じっと見上げて眺めてみてわかった。

 

阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループの創業者・小林一三翁だった。

 

事業は後に阪急百貨店、宝塚歌劇団・東宝と、情報文化産業へと至った。

 

根強い人気を誇る「宝塚歌劇団」、日本のハリウッドを目指した「東宝映画」。

 

新聞社を巻き込んだ「夏の高校野球」といったイベントを考案し、ビジネスとして発展・成長させた天才的起業家なのだ。

楽屋訪問

川端康成邸のパーティーへ。

私は偉いおじさんのフォトを眺めながら、額縁の座りが悪いのか、すこし傾いているのが気になって仕方がない。

 

丸尾先生はなかなか現れない。

 

事務所前を、あ、あ、あ、あ、と発声する声が聞こえたり、ひとりでブツブツセリフを練習する人や、歌う人が通り過ぎて行く。

 

クインチャーミングスークールの卒業パーティ席で、私は、丸尾長顕先生に、「女優になりたくてレッスンをしていたが、体をこわしてやめました」と伝えた。

 

すると先生は、椅子に座っていた私に立つように言った。

 

私は、しまった!

と思った。

 

人前もはばからずのあまりにストレートな言葉に叱責されると、覚悟を決め立ち上がり、丸尾先生、ノーベル賞作家川端康成先生、スクール仲間の女性たちに一礼した。

 

軽く手を振りながら丸尾先生は、正面を向きあごを上げてと命じた。

 

私の全身をメガネ越しの鋭い目で顔から胸、そして足元まで見下ろした。

 

次に足から腰、胸、最後に再び私の顔を眼光鋭い目で見て「いいですよ、お座りなさい」と言った。

 

ニキビ肌がもっともひどかった時には、対人恐怖症や赤面恐怖症になった経験もある私だったが、この場にいる全員に見つめられても、顔に血がのぼるほどの苦痛や屈辱感も劣等感も感じなかった。

 

再び椅子に座った私は「先生、私、ご相談しに事務所に伺ってもいいですか」とテーブル席に座る全員の前で面談を取り付けた。

 

そして今日の楽屋訪問だ。

 

私を立たせ、横を向かせたときに、どう感じられたのかの解答はもらっていない、気にかかってもいた。

丸尾長顕先生と、小林一三翁

「ああ、すっかり待つしてごめんなさいね」。

 

丸尾先生が入室。

 

すぐにデスクに付くと原稿用紙にペンを走らせた。

 

原稿にペンを走らせる先生と、その頭上の小林一三翁の関係などをぼんやり想像していた。

 

私は、どうしたらいいのかと思案していると、「品川くんは太った経験あるかな」とメガネをオデコあたりにずらしながらいきなり質問された。

 

「もちろんあります」。

 

10代の頃の肥満は食べ過ぎとの闘いだ。

 

後に、それは10㈹に限ったことではないと気がつくのだが。

 

丸尾先生が原稿を書いていたのは、ご自身の家庭で幼い娘さんのべビーシッタとして働く鈴木真由美さん(18歳)を半年で、ここ日劇ミュージックホールでライトを浴びる歌手になられるまでの育成のプロセスを「女性自身」誌に書いていらしたのだ。

 

私たちは「肥満」を気にして「やせる」努力もするが「食べたい」という当然の誘惑との日々闘いですと答えた。

 

「そうだな」先生の身長は低いが、その分横幅が広く「ミルクタンク」と称されていた。

 

結局、その日の先生は「女性自身」の原稿を書き上げると次の予定があるとの事だった。

 

私の相談事は次回に持ち越され、次に伺う日を約束して頂いた。帰り際に、私は気になる頭上の写真と先生の関与を伺った。

 

「品川さん、知っているかな、この方は小林一三先生と言って偉い方だよ」

 

「はい、存じあげていますが、丸尾先生にとってはもっと深いご関係があるのですか」

 

「そうだね、僕にとって小林一三先生は尊敬し目標になる方だな。だから僕は先生の私設秘書的な役割もしていますよ」

 

とほほ笑んだ。

 

私にとって丸尾長顕先生は見上げるように偉い大人の男性。

 

だが、その方にも自分が私淑してカバン持ちと仰ぐ方がいるのだと、何だかとても素晴らしいことを学んだような満足感に包まれて、日劇のビルを出た。

銀座通りを歩く

少し歩いて銀座通りに出た。

 

終戦直後に歩いた銀座は、全世界の人々が押し寄せたように鮨詰め状態で、一度その列の流れに入るとまともに歩けない混雑だった。

 

山脇学園の高校生のときに毎週土曜日には制服をかなぐり捨て、自分好みの私服を着て銀座通りを友達とそぞろ歩いた。

 

すると何人かの男子に声をかけられた。いわゆるナンパの場所だった。

 

私は2、3回で飽きた。お茶を飲んでも学園の名前も隠し、大人っぽく見られたので女子大生と偽りながらの会話は空疎で心もはずまなかったのだ。

 

三越や松屋デパートで開催されている展会を見てまわる方が好きだ。

 

書画や工芸をひとりで見て回り風月堂でお茶してキムラヤのアンパンを母のおみやげに買うこともあった。

3度目の訪問と、中華料理

2回目の約束も次の打ち合わせがあるとのことで、また「女性自身」の連載にお役にたつような事を伝えるだけだった。

 

2回目の時に受付けのおじさんが部屋の掃除をしていたので、灰皿をキレイにしたりソファを整えたりと頼まれもしないのにお手伝いをした。

 

そして、ニコニコ顔のおじさんに、小林一三翁の額縁をまっすぐにしたいと申し出た。

 

おじさんも、なるほどと言って、梯子を持ってきてくれた。

 

私が椅子に乗り左右ピタリと収め、梯子を下りようとした時、丸尾先生が入室。

 

私もおじさんも驚いたが、おじさんが私も気になっていたのでお嬢さんと一緒に勝手にしましたと詫び展くれた。

 

すると先生は「気が付いてくれてありがとう」と笑顔で言ってくれた。

 

そして3回目の楽屋オフイス訪問。

 

原稿を仕上げた丸尾先生はが僕のいきつけの美味しい中華料理を食べに行きましょうと言ってくれた。

 

東宝関係の方が多く出入りする中華屋さんだったが、ここも特別豪華というわけでもなく、飾りっ気のない店だが、料理は美味しかった。

 

その時食べたクラゲの酢の物が美味しく、私は今でも中華レストランに行くと、キュウリとクラゲの酢の物は必ず注文をする。

 

食事中は、あのオフイスは3人の演出家の部屋だが、演出は1ヶ月交代で担当しているので、全員が揃うことは殆どないと言った雑談を交わした。

 

「さて、それで僕に相談したい事は」と質問された。

女性自身連載

「魅力学」の伝承者へ

「私、女優になれないのでしょうか」と率直に今の自分の気持ちを声にした。先生は私の目を直視して言った。

 

「女優にもいろいろある。君がスター女優を目指すとしたら、それは厳しいし、難しい」

と明言された。

 

スター女優になれるのはエベレスト山のように高く、砂漠で金を探すような困難がある。そして運の強さも持っていなければならないな。

 

心に沁みる言葉だ。

 

エキストラで出演したとき、待つ事をひたすら強いられる長い時間。

 

とにかくそのときは撮影されても、実際には映っていない映画。

 

主役をやっても丹下キヨコさんに叱責された苦い経験。

 

私はすでにその過酷さ、みじめさを経験済みだった

 

。最後はプライドが許さず閉じこもりになり、寝込むほど傷ついたのではなかったのか。

 

スタ―育成に眼力のある著名な演出家が言うのだ。

 

「諦めよう」。

 

そう結論付けるしかなかった。

 

「品川くんは、人の指示を受けるより、指示を出せるリーダータイプだね。」

「だから僕が提唱している魅力学を引き継いで欲しいと思っている」

 

思いがけない丸尾先生の言葉。それに「魅力学」って、どんな学問。

 

こうして、私は丸尾長顕先生から「魅力学」の伝承者としての指名を受けた。

 

この時から3か月後、私は日本美容専門学校秋期クラスの受講生になっていた。

 

美容を学ぶためだ。丸尾先生に言われてから両親や親友にも相談しての決断だった。

 

その頃「女性自身」の連載も終わり、鈴木真由美ちゃんはステージでスポットを浴び、新聞にも大きく報道され、日劇ミュージックホールに活気をもたらしました。

 

人はこんなにも美しく変身できるのかと感心した。

 

私は師匠の人を育て、その魅力を拡散していく演出力に強い興味も沸いた。

 

美容学校には高校生時代より真面目に通った。

 

魅力研究家になれば、スター女優さんにアドヴァイスを与えられる立場になれますよ。

 

魅力研究家とはいかなる存在かわからないが、人の魅力を研究する学問に多いなる魅力を感じた新しき出発だった。