【マダム路子・自分史(第20話)】美容の可能性と影響力を実感した、専門学校の日々

1959年10月、日本美容専門学校昼間部に入学。4月に入学を決めていれば、いくつもの美容学校をつぶさに吟味、検討してから決めることができた。 しかし、我が師と仰ぐようになった丸尾先生とのクイーンチャーミングでご縁ができた卒業パーティーが9月上旬。丸尾先生のオフイスに伺った折に、「魅力学の伝承者」になりなさいとのご託宣を頂いたのが9月中旬。 その段階で美容学校の選択幅はなく、あるとすれば通信で受講するしかなかった。
2020/06/30

日本美容専門学校

私は、実際に通学して「美容学」を学びたかった。

 

秋期でしかも昼間部で通学できる美容学校はないかと電話番号帳を頼りに必死に探した。

 

そして見つけたのが日本美容専門学校だった。

 

所在地は高田馬場。

 

高円寺の自宅からそう遠くはない。

 

朝9時から午後4時まで、実技練習が7割ぐらいで、理論が3割くらい。

 

高校時代の3年間は放課後に通った劇団でのレッスン、稽古事には熱心に励んだが、学業には、ほぼ無関心で高校最後の成績は最下位から数えて7番目という酷いものだった。

 

自分よりまだ下位の人がいるのかと感心したが、大学進学をするわけでもないと、学業に対して自分の不甲斐なさを反省することもなく、後悔の念も持たなかった。

 

また、学業と劇団、稽古事の日々はついに体調を壊し、遅刻、欠席も常習犯。

 

それが、日本美容専門学校に通うようになると遅刻も欠席もせず、授業にも真剣に臨むようになった。

すこし遡って、入学式を10日後に控えた頃。

入学式に出席できないのではと不安に襲われる事態が起こった。

 

その日は、朝から体がだるく、お腹が痛いのでかかりつけの医者に行った。

 

ニキビがもっともひどい時には、皮膚科では効果的な治療法がなかったので、胃の調子が悪いのもニキビに影響しているのではと、胃の検査も受けていた個人病院だった。

 

午前中の診察では盲腸の痛みかもしれないと痛み止めの注射で、正常に戻ることもあると言われて帰宅。

 

しかし、時間が過ぎても一向に痛みは治まらず、脂汗が流れるほど痛みが激しく熱も上がってきた。

 

父に付き添われて、再び同じ医院に行った。

 

すぐに血液検査をすると白血球が以上に上昇しているので完全に急性盲腸炎で緊急に手術をしなければならないと診断。

 

だが、その病院では手術の準備がないのでと、やはり個人病院だがこれからすぐに手術をしてくれる病院を紹介された。

 

自宅からそれほど遠いところでもないので、父に連れられ緊急入院。診察を終えた医師が言った。

 

「もう少し遅かったら腹膜炎になって大変だったよ」と言われました。

 

「先生、できるだけ傷は小さくお願いします」と言ったら先生は笑いながら頷いてくれた。

 

手術後医師が切り取った盲腸を見せてくれた。

 

「想像していた以上に大きくなっていたが、あなたが傷は小さくという希望だったのでちょっと大変だったよ」と言われた。

 

私はそれまでに何人かの盲腸の術後の腹部を見たことがあった。

 

どれもが10㎝前後の長さで縫った後も醜くひきつれていた。

 

体の一部にあんな大きな傷がつくのは絶対に嫌だと思ったのだ。

 

せっかく自分が目指す魅力研究家・美容家を目指そうとしているのに体に傷がつくのはニキビ肌を嫌悪するのと等しく嫌だった。

 

手術は終わったが当時は盲腸程度の手術でもすぐには退院できなかったのだ。

 

傷が小さいので術後の傷の痛みはすぐにおさまり抜糸もできるまでになった。

 

しかし、右足の太ももが少し腫れている気がするし鈍い痛みがある。

 

入学式を10日後に控えていたので、1日も早く退院したかった。

 

鈍い痛みは麻酔注射の痕からウイルス菌が入り込んだとの事。

 

怖いと思ったが院長は隠すことなく私に事実を説明し、菌を殺す処置をしてくれたので、腫れも引き痛みもなくなり退院した。

不器用な私でもやれば、がんばれば出来る

今、新型コロナウィルスが全世界に蔓延し対応に苦しんでいるが、人間が地球上に存在する限り、菌との縁はきれないと、あの日、あのときの若き日の菌感染を思い出す。

 

自宅に帰り腹部の傷跡をじつくり眺めたが、その傷は想像以上に小さい。

 

ほっとした。

 

盲腸の手術という突発事故はあったが、入学式には無事終了。

 

春期と違い秋期の受講生の年齢はまちまちで、すでに社会人経験を経ている人々たちで私が最年少だった。

 

かれらの理由は目的がはっきりしていた。

 

セレブ系のマダムっぽい人、美容師免許を取得したら「美容サロン」をオープンする。

 

ご主人が急逝し、夜の街で働いているが、美容サロンに転職したい方とか。

 

高校卒業をして美容師を目指す若者たちの夢や希望を超えた、もっと切迫した覚悟をもち受講する大人の中に交じる19歳の私。

 

10代のしっぽにいる私ではあったが、彼ら大人たちに負けない大きな夢を追い学業に励んだ。

 

実技練習のときに不器用な私の手は思うように動かず、教師や仲間たちが手を止め、私がマスターするまで待っていてくれるのを見ると、ますます上がってしまうという場面もあった。

 

しかし、髪のフケをつげの櫛でとる技術(今は無い)の要領がわかり出来た時には「不器用な私でもやれば、がんばれば出来ると胸が熱くなった。

 

この経験から私は技術を持つ人には格別の思い入れをするようになった。

網倉妃葉子理事長

網倉妃葉子理事長(中央)

学校生活に慣れてきた頃、網倉妃葉子理事長に「あなたが魅力学を丸尾先生から継承すると選ばれたお嬢さん」と声をかけられた。

 

小柄だがシックな洋服とレースのついた帽子をかぶられた網倉妃葉子理事長は品格と威厳を備えた方だ。

 

実は、丸尾長顕先生と理事長は、旧知の仲だったのだ。

 

早くにご挨拶をしようと思ってはいたのだが、そのチャンスがなかったので「ご挨拶遅れて申し訳ありません」と深く敬礼しながら答えた。

 

「丸尾先生も、ようやく魅力学を広めてくれる人が出て来たと喜ばれていたわよ。がんばってね」先生の笑顔が、私には女神のように思えた。

 

また、網倉理事長は、丸尾先生、山野美容専門学校長とも美容師の社会的地位を上げる主旨の啓蒙活動などで協議会メンバ―でもあった事も知り素晴らしいご縁つながりに感動した。

 

また、校長は慶應義塾大学教授・奥野進太郎氏。

 

中国文学研究のかたわら数多くの軽妙な随筆で人気があった方で丸尾先生との親交も深く、一度3人でお茶をしたこともあった。

 

現在の美容学校の実技レッスンでは、モデルウイッグを使用するが、当時は相モデルといって生徒自身の髪で、毎日相手を代えながら技術を習得した。受講用の鏡の前で、毎日「自分の顔」と対面する。

 

ニキビが気になる私は、その肌を隠すためにかなり濃厚なメイクをしていた。

 

しかし、自髪でモデルになるので、ローションが顔に流れてきたり、シャンプー剤が目にはいりそうになったりするのでメイクをしている意味などない。

 

したがって、実習の時にはほとんどスッピンで鏡の中の自分の顔と対峙することになる。

 

自分が、何もやることがないからと言って雑誌など読むのは厳禁。

 

居眠りなどすると背中が折れ曲がって相手に迷惑をかけてしまうからこれもタブー。

 

しっかりと背筋を伸ばしあごを上げて、鏡の中から相方の手元をみたり、ピンを手渡したりする。

 

そうしながらも顔は正面を向いたまま。

 

いやでも自分のスッピンの顔を見ることになる。

 

皮膚科学の授業のときに、講師の東京女子医大の中村敏郎教授に私は、ニキビを治す適切な治療法はないかと質問した。

 

治療法についての内容は町医者が言う「甘いものを食べ過ぎない、胃腸を整える、メイクはしない」等で少し落胆した。

 

中村敏郎教授は「ニキビはね、一過性のものだし、青春期に多発するが必ず治りますよ、気にし過ぎて始終さわったり、ニキビの数を数えたりしてはいけない、後に夏みかんのような肌になるのでね」必ず治る、この言葉は私の肌の悩みに光を与えてくれた。

 

気にし過ぎない!

触らない!

必ず治る。

 

私はモデルになっている間、鏡の中の自分の顔に呪文のように唱えた。

 

同時に規則的な運動、入浴、食事にも気を遣うようになったが、ただひとつだけ、ストレスが生じない程度に甘いものは食べた。

 

気が付けば、次第にニキビは消失していき、毛穴も大きく開くこともなく元のキメの細かさが戻るようになってきた。

 

突然のニキビ発症から2年ほど経っていたが、私は美容面での疎外感は時に性格さえも変えてしまう影響力があることを身をもって知った。

 

幼い弟にヤケドを負わせてしまった私の罪は大きいと改めて肝に命じた。

 

立派な美容家になり肌だけでなく美容で悩む人にこたえられる力を磨こうとも、自分が苦しみ悩んだ経験から、そうした人たちに優しく接することができると思えた。

奥野信太郎校長(中央)

レベルの高い技術を見せて感性を磨かせる

モデル撮影
モデル撮影

授業が進んでいく中で、特別講座が開催されてることがあった。

 

特別講座とは、有名なヘアアーティストを学内に招き、高い技術を生徒たちに披露する。

 

これも網倉理事長のお考えのようだった。

 

若いうちに、レベルの高い技術を見せて感性を磨かせる、実際に私たち生徒にとって、神業のような素晴らしい技術に、美容を学ぶ意義と自分もそのレベルにたどり着きたいと鼓舞された。

 

その際に、私はよくモデルの依頼を受けた。

 

昼間部の卒業式では、ビューティーショのモデルとなった。

 

堂々と振る舞えたのは、女優志願時代に身に付けた表現法のおかげだった。

 

19歳から20歳になるまで通った日本美容専門学校時代は、伸び伸びと新しい知識を学び、美容の力が人間にとって大きな影響力を持つ実感をしっかりともった。

 

素晴らしい青春だったと、今、思い出しても嫌なことはひとつもない。

 

現在、私は日本美容専門学校の十期生として毎年「ハイアットリージェンシー・東京」で開催される500人の生徒たちの入学式と卒業式でエールを送るお役目を頂いている。

 

しかし、2020年、今年はコロナ感染の影響で来賓抜きの式典になり、伺うことができなかった。

 

網倉妃葉子理事長の後を継いだのは令息の網倉卓爾氏。

 

現在は網倉卓爾氏が会長になられ、令嬢の網倉糸乃氏が理事長に就任。

 

時を経て代が変わっても秋期10期生として私お招き頂く名誉に深く感謝している。

 

美容学校を卒業すると、すぐにインターンとして1年間サロンで働き、実施訓練を受けた。

 

次には国家試験を受けなければならない。

 

プロへの道を一歩前進し、社会人となった。

網倉卓爾会長