【マダム路子・自分史(第23話)】講師業。集客の重要性。自宅開業に至るまで。

念願の魅力研究家・美容家のプロとして、杉並区高円寺の自宅から飯田橋の日本チャームスクールに通い講師として働く日々が始まった。専任講師の受け持ち科目は多岐にわたっていた。
2020/08/04

受講生からの共感

スクールスタイル

指導内容はメイク・ヘア・体操・表情・ポーズ。

 

メイクもヘアもひとりひとりの個性を美しく引き出しアドヴァイスしながら鏡を見て決めていく。

 

その上で受講生自身が眉やアイラインを描く。

 

口紅のカラーを選んで顔全体の調和を導きだす手技のレッスン。

 

ヘアスタイルも自分でヘアカラーを巻き、「顔は絵。髪は額縁です」などと言いながらヘアのボリュームを出すところ、押さえるところを見たてながら整えて行く。

 

鏡に映る顔に笑顔が浮かぶ。

 

受講生の笑顔こそ私にとっての一番大きな喜びだ。

 

インターンをせずに美容学校の専科クラスに通っていたことが多いに役に立った。

 

顔を美しく引き立てる技術は、チャームスクールの授業には必要不可欠。

 

実際の指導として重要なポイントを学んだのだと満足できた。

 

少し規則違反をしてしまったが、これで良かったと自分に対しての言い訳にした。

 

受講生は私より年上のBGや主婦が多い。

 

若い私は、それらの女性たちの経験値の上を行く指導をするにはそれなりの説得力が求められた。

 

少しばかりマスコミに出た事があると言っても、実際の指導経験は無い。

 

それが、いきなり教壇に立ち授業を進行するのだ。

 

私は心中「ナメられてはいけないぞ」と気合を入れていたが、おかげさまで、その心配は取り越し苦労に終わった。

 

年上の受講生たちが最初から好意的な態度を示してくれたのは、開講日に私が大上段に演説まがいの挨拶をした効果だった。

 

世間では、文化人と言われる偉い先生たちの「美は内面にあり、外見は2の次」的な上から目線の解釈と、美や魅力は知的な魅力に劣る的な言葉に対して、私の反発に満ちた戦闘的挨拶をした私に共感の拍手をしてくれた。

 

私がメンターから継承してきた【魅力学®】のコンテンツを頻繁に伝えたことも説得力につながったようだ。

 

ところで、受講生のBG、とは、当時は働く女性のことをBGと呼ぶ日本の造語だった。

 

それが物議を醸した。1963年、「新しい時代の働く女性」を表す呼び名として、(business girl「ビジネスガール」)に代わる呼び方を『女性自身』誌が公募。

 

BG(business girl「ビジネスガール」)とは、欧米では売春婦を指すのだから変えるべきとなったのだ。

 

読者投票の結果誕生したのは、やはり造語のオフィスレディ、現在のOLに変わった。

 

現在はキャリアウーマン、キャリジョなどともよばれたり書かれたりもしている。

 

私が十代の頃は働く女性は「働く婦人」と、ダイレクトな呼び方だった。

 

時代の変化は、呼称も変えていく。

 

女性蔑視の枠がひとつ消去されたとも言える。

男性目線の取材

いかなるビジネスも「集客」がすべて

私の専任講師の授業は、午前中10時に1回。午後2時から1回。

 

そして6時から1回。1日3回の授業は、同じことを繰り返す講義だ。

 

しかし、実技はそれぞれの個性を見抜く力を試される。緊張感が続く体力勝負の仕事場だった。

 

私は、講師の仕事を通じ心から魅力研究家・美容家を目指したことは正解だったと、強い生き甲斐を感じ、キツイ仕事内容も楽しく、自分もできるだけ凛として美しい外見を整え、受講生から信頼を得ようと張り切っていた。

 

1期生はメディアに紹介された効果があり生徒が集まった。

 

2期生の生徒募集も開校当時から進められていたのだが。

 

集客ツールは、飯田橋地区にチラシを巻く事ぐらいだった、ラジオやテレビでの宣伝などは思いもよらない事だ。

 

費用対効果は期待できないし、経営者にそれだけの金銭的な余裕もないようだった。

 

専任講師の私に、宣伝の仕事を事務長から業務命令を指示された。

 

しかし、広報と言っても、今のようにSNSのようなシステムなど皆無の時代。

 

パンフレットを二人の女子事務員と近所のビルにポスティングをする。

 

友人、知人にパンフレットを渡すぐらいしかなかった。

 

経営者、事務局、女子事務員2人と私、2~3の講師による協議会がもたれたが、具体的な集客法についての建設的な意見は何も出なかった。

 

私以外の講師は、それぞれ自分の属する組織での役職が大事であり、日本チャームスクールの今後に対し、特に熱意をもち起死回生の方策など提示する気はないのだと私は受け止めた。

 

我がメンターも本職の演出の仕事が多忙でこの日は欠席だった。

 

私が宣伝、広報の役に任命されたのは、メンターの作戦で無名の私をメディアに認証するバックアップ活動を意識してのことだったようだ。

 

しかし、そうした広報は、それに対応して次の作戦のアクションをしなければ一過性の注目で終わってしまう。

 

結果的には、わずか半年で閉講に追い込まれたのだ。

 

私は、初めて勤務した日本チャームスクールの開講から閉講までを短期間に経験したことで、経営の持続には安定した【集客力】が伴わなければ如何なる優れた内容も伝えることは不可能なのだと強く感じたのだった。

 

これからどうしたら良いのか。もうあまりメンターに頼ることもできないという覚悟も定まってきつつあった。

 

そんなある日、「不動産コンサルタント」という看板に目が留まった。早速コンサルタントの意味を父や兄に訊いた。

 

よくわからないままに父や兄の言葉をまとめてみた。

 

コンサルタントの役割は企業の様々な経営上の課題を明らかにし、解決策を提示し、その実現を支援すること。

 

私はこのコンサルタントを魅力学®指導に取りいれようと決意。

 

「品川路子のビュ―ティーチャームコンサルタント」で私独自のビジネスを立ち上げようと決めたのだ。

 

次の問題はそれを実施する場所をどこにするかであった。

 

そこで、日本美容専門学校の初代網倉妃葉子理事長に相談をした。

 

自分勝手な大胆なお願いだとの自覚はあったが、すがるような気持ちで、【魅力学の伝承活動】が6か月位で挫折したくないと訴求した。

 

その気持ちには嘘はなかった。

すると理事長が「学校の放課後に空いている教室を使っていいわよ」といって下さった。

 

賃料は無料。美容師の地位向上を目指す活動家の理事長だからこそ、卒業生である生徒の私の無理を聞いてくださったのだと心から感謝している。

 

長方形の板に「品川路子のビュ―ティーチャームコンサルタント」を校門の看板の端に張り付けて頂いた。

 

授業が終わった生徒たちが数人集まったが、長く続けられる場所ではない。

 

後年、2代目の網倉卓爾理事長に伺うとあの時の板版が残されていると伺い、改めて恩師の愛に感謝した。

 

美容学校は生徒数も増え、教室の空きがなくなった。

 

お役に立てないとしきりに謝罪する教師に、私の方こそと何度も頭を下げた。

品川路子のビュ―ティーチャームコンサルタント

自宅の教室の前で

継続的に使える場所の候補を考えに考えた上で、両親に相談した。

 

私は「品川路子のビュ―ティーチャームコンサルタント」指導の場を自宅にしたいと申し出たのだ。

 

私の自室は6畳で家具や本箱はつくりつけになっていたが、そこは使えない。

 

部屋の前に板の間の廊下より広いテラスのような場所が隣室の弟の部屋の前まで続いていた。

 

両親も最初は驚いた。

 

頭から反対するのではなく、静かな郊外の住宅地で開講しても受講生が集まらないのではというあたり前の、ごく自然な疑問だった。

 

もちろん、私も不安感の方が強い。

 

しかし、どこかに場所を借りたい経済的な負担を🄬両親にかけたくない。

 

また、ビジネスに慣れない私が、自分で場所を借りてまでオープンする事の方が怖かった。

 

両親の了承を得たので、次は生徒募集だ。最初から近所にチラシを巻くなどは考えなかった。

 

なぜなら近所の女性年層はチャームスクールの受講生より年齢も高く主婦が多いと推測できた。

 

手をこまねいても仕方がないので絵の巧い、ボーイフレンドに画用紙に宣伝用のポスターを作ってもらい近所の電信柱に貼り歩いた。

 

行きつけの洋装店に貼ってもらったりもした。

 

そして、メディアに向けて「品川路子のビュウ―ティーチャームコンサルタント」を推薦して欲しいと、最後にメンターにお願いをした。

 

メンターが文章を作成し私がガリ版刷りを30枚ぐらい刷り、メンターと私の知る限りの出版社に送付。

 

すると、驚いた事にすぐ新聞と週刊サンケイからインタビューが舞い込んできた。

 

さらにフジテレビから思いがけない大役の依頼がきた。

 

この仕事が私の運命を大逆転することになるのだった。

自宅のビューティチャーコンサルタント