【マダム路子・自分史(第24話)】人生を変えた、山野愛子氏との出会い。

ようやく夢がかなった。周囲の応援もあり、めでたく「魅力研究家・美容家」の肩書でチャームスクールの講師になり、ギャラも、貰えるようになった。
2020/08/19

【魅力学】の重要性

経営者や事務局、年上の受講生にも指導力が認知され前途洋々な気分でいた。

 

しかし、そんなルンルン気分も長くは続かなかった。

 

事業経営を左右するもっとも大事な「集客」が思うように行かず、生徒を集められなかったからだ。

 

講師費用もかかる。

 

株式会社ではあったが、個人経営に近しく運営資金的にも難しかったのだ。

 

結局、日本チャームスクールは6ヶ月で閉鎖された。1962年の9月のことだ。

 

こうした教室は、産経新聞社の協力で開講した日本初のカルチャーセンター「産経学園」、毎日新聞社系列の「毎日文化センター」など、新聞社や放送局などが提供する規模が大きい教室でなければ継続は厳しい。

 

1963年、私は後に「産経学園」の銀座、新宿、浦和の系列学園で美容講座を受け持った。

 

同じ9月、本田技研工業が日本初の国際的水準の鈴鹿サーキットが竣工を迎えた。

 

10月には プロボクシングでファイティング原田が19歳6か月で世界フライ級王者となった。

 

日本は戦後の国難から高度成長へと向かっていた。

 

半面で大学生たちによる反政府運動のデモ問題も大きく浮上していた。

 

私もデモ行進をする学生たちと大して変わらない年齢だった。

 

彼らは自分たちの信じる主義主張で日本の政治システムを変えたいと考えての行動だった。

 

そうした中には多くの女性たちもいた。

 

私は、暴力と理解しにくい理念ではなく女性が持つそれぞれの魅力を引き出し、活動の場を広げ社会的地位、男女格差も無くしたいと思っていた。

 

私は、ますます【魅力学】、の重要性を胸に刻んだ。しかし、熱い思いはあってもそれを実施する場がない。

自宅の庭で

自宅での教室経営

卒業校である日本美容専門学校の放課後の教室使用と、自宅での「ビューティチャームコンサルトン」教室を開講したりしたが、やはり集客に結び付ける方法には頭を痛め続けていた。

 

考えた末に私は、マスコミ各社に自宅の教室の紹介をして頂くようメンターにお願いした。

 

すると、週刊サンケイ、週刊女性誌、新聞が私の教室に取材に来てくれた。

 

新たな仕事に賭ける女性だとアゲアゲの記事を書いてくれた。

 

マスコミ効果で十数人の受講生が集まり、それなりの入金があった。

 

母に自分の収入を披歴してやや自慢気に「儲かったわ」と言った。

 

すると母が「あのね、路子、自宅だから家賃も光熱費もないわね。だけどお教室にするため少し改装した費用はお父さんとお母さんたちが払ったわね。費用全部をもし路子が払ったらどれだけ残るの?」

 

私は、母の思いがけない言葉に戸惑い、そして腹がたった。

 

私は返す言葉が見つからず、黙って自分の部屋の2階に上がってしまった。

 

なぜ母は急にあんな厳しい事を言ったのかと考えてみた。

 

母は、富山県富山市で八百屋を生業していた家の6人きょうだいの長女。

 

金持ちではないが両親共に働き者で妹二人弟二人が十分に暮らして行かれる賑やかで仲の良い家族だった。

 

父親(母の父)は芝居が好きで、ご贔屓の役者たちを自宅に呼んでは食事をさせたり、小遣いを上げたりしていた。

 

あるとき、親しくしていた座長から借入金の保証人を依頼された。

 

座長を信用していた父親は気軽に保証人の判を押してしまったのだ。

 

その後、座長は姿を消し、負債はすべて父親が肩代わりをするはめになった。

 

母の父親は病死、一家は離散することになった。

 

私の祖父だが会ったことはない。

 

母は進学も諦め東京の伯母の家に奉公(家事手伝い)に出た。

 

そして、東京で父と出会い結婚したのだ。

 

父は50代で早期退職をして会社を設立。

 

そんな父を母は難病に罹患してもしっかり家計を支えていた。

 

プロ講師とは言ってもまだ世の中の仕組みをわからない私。

 

収支もあいまいで、ランニングコストも考えず簡単に「儲かった」などと浮かれていては、本当の意味でのプロにはなれない。

 

母は甘い考えを正してくれたのだろう考えなおした。

実際、自宅の教室経営もいつまでも続けられるか不安だった。

 

家賃は掛からないが、宣伝費もかけられない、次の一手をどうするか。

 

そんな心境の時にフジテレビからのオファーがあった。

自宅 (1)
自宅 (2)

審査委員長になる

番組を担当するプロデュ―サーとフジテレビで会った。

 

イベント開催の内容だった。

 

当時の女性用のナイロン靴下には足首から太ももにかけてシームがあった。

 

脚の中央にシームが真っ直ぐに履かなければならない。

 

慌てるとシームが曲がるしたるむし、キャリアウーマン泣かせの靴下だった。

 

その煩わしいシームを無くし、履きやすい靴下に変革しようとしたのが「厚木ナイロン」の新製品の「シームレス靴下」だった。

 

厚木ナイロンは1947年に「すべての女性の美と快適に貢献したい」の理念で創業者堀禄助が厚木編織株式会社として設立。

 

現在も70年を超える歴史を積み重ねシームレスストッキング、パンティストッキング、サポーティストッキングを時代に先駆け開発。

 

ストッキングのトップブランドとして、人気も高い。

 

その厚木ナイロンが脚線美を競うコンテストを地方都市で開催しフジテレビが中継する。

 

「品川さんには他県での予選の審査委員長にお願いしたいのです」

 

思いがけないほど嬉しいオファーだが、即座には信じられない。

 

若い私をたぶらかそうとしているのかという疑念さえ頭をよぎった。

 

その場では返事をせず、メンターや両親に相談。

 

大人たちが示した条件がひとつだけあった。

 

それは付き人の同伴だった。

 

華やかなテレビ界のスタッフとの旅。

 

若い男性も多い。そんな中での誘惑を恐れたのだ。

 

私自身が周囲を説得するためにも必須条件だった。

 

プロデュ―サーのK氏はフジテレビの人気音楽番組も手掛ける実力者。

 

しばらくためらったが思いきって「私のギャラは減額してもお願いします」と言った。

 

私のギャラは減らさないで付き人のホテル代や交通費は支払ってくれると交渉成立。

 

名古屋、大阪、広島、札幌、京都と私は審査委員長役をこなしていった。

 

どの県でも審査委員長の若さに驚かれた。

山野愛子氏との出会い

最終審査が大手町のサンケイホールで開催される日がきた。

 

審査委員長は写真界のレジェンド・秋山庄太郎氏。

 

美容界の教祖と言われていた山野愛子氏。

 

女優の白川由美子さんと私。

 

厚木ナイロン靴下の堀社長、ほかはフジテレビの関係者だった。

 

そうそうたる大人の審査員と控室に入った。

 

特別に決められていなかったが、私は控え目にと思い、ドア近くに座った。

 

そっと周囲を見渡すとひとテーブルの間を超えた席に秋山庄太郎氏と山野愛子氏の姿が見えた。

 

私は立ち上がり、そちらの席に挨拶に行こうとした時だった。

 

「初めまして路子さん、山野愛子です」

 

と少ししゃがれ気味だが、私には神の声にも勝る声が耳に飛び込んできた。

 

私は椅子の背を思い切り押して立上がり、「はい、品川でございます。よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。

 

頭を上げた途端にテーブルの合間を縫い秋山庄太郎氏と山野愛子氏のテーブル前に歩みよった。

 

すると、フジテレビのスタッフが私を予選候補の審査委員長をした、品川路子さんです」と紹介してくれた。

 

「ほう、あなたが予選の審査委員長、若いのに凄いね。

 

でも本当はコンテストに出てもよかったんじゃない」と秋山氏が言った。

 

「本当ですね、タレントさんですか」山野愛子氏がかさね質問した。

 

私は自分の肩書を伝え、美容師資格も取得しているとも伝えた。

 

お二人は「ここに座りなさい」と言ってくださった。

 

私はお二人に自分から先にご挨拶ができなかったことに密かに唇を噛みしめた。

 

日頃から母から

 

「実れる稲は穂をたれるのよ。少しくらい名前がでてきたからと言ってまだまだ、未熟なのだから偉そうにしてはだめよ。特に先輩の方には自分の方から挨拶なさいよ」

 

母の教えが守られず、雲上人のようなお二人、特に山野愛子氏から先にご挨拶頂いたことが悔やまれたのだ。

 

この日の出会いをきっかけに、山野愛子氏との距離が縮まり、山野愛子氏の次男との結婚へと進んでいく。

 

人生の激変の兆し。

 

思いがけない方向に進み、波瀾万丈の“あの日、あの時”の幕があがった。

結婚決意