【マダム路子・自分史(第25話)】突然開かれる、新たな運命への扉。

1963年、私は23歳で山野美容専門学校理事長・山野治一校長・愛子夫妻の次男山野凱章と結婚した。
2020/09/02

後継者!?

知り合って3ヶ月での結婚と、週刊誌を中心としたメディアにセンセーショナルに報道された。

 

報道の主旨は、私が山野愛子先生の後継者、二代目になるだろうとの予測的記事だった。

 

私も結婚相手も、心底驚いた。

 

週刊誌の表紙に掲載された広告が、小田急電車にぶら下がるのを偶然目にした時には、あっと声が上がりそうになるほどの衝撃を受けた。

 

どうしてこんなあり得ない報道になったのか。

 

山野夫妻も、ましてや、当の私たちも山野愛子校長の後継者など考えも想像もしていなかった。

 

私自身は結婚をしても日本初の魅力学研究家の道を究めるという確固たる意志を変えるつもりなど無い。

 

この道を断念し、美容家だけを目指す気持ちなどさらさらなかったのだ。

 

報道は善意に満ち書かれたものもあれば、悪意に満ちた、いわば「でっち上げ」の内容も書き連ねられていた。

 

たとえば、私が山野ファミリー一族の乗っ取り目的で夫に近づいたとか。当人と共に笑ってしまった。

 

私たちの結婚は、あくまでも、私たちの意志で決めたもの。

 

当時、結婚適齢期は24歳というのが常識ラインだった。

 

私にもボーイフレンドはいたが、結婚をしたいという願望は全くなかった。

 

結婚以上に望んでいたのが仕事の成功だった。

 

魅力研究家・美容家としてメディアにも紹介されるようになったが、挫折を味わうのも早かった。

 

両親にすれば、「まだ23歳」だ。

 

当人が挫折と感じるほどの問題ではない。

 

その気があれば見合いだっていくらでもできる年齢であった。

白鳥の湖

ある日、父が世界的に有名なバレエ公演に行こうとチケットを渡された。1961年以来、数年に一度来日公演を行っているロイヤル・バレエ団のチケットだった。

ロイヤル・バレエ団は、イギリスの王立バレエ団。

 

フランスのパリ・オペラ座、ロシアのマリインスキー・バレエの2大バレエ団にロイヤル・バレエ団を加え、世界三大バレエ団と称されてもいた。

私と父は二人で観劇することも珍しい事ではなかった。

 

母の関節リュウマチによる、寝たきり状態からは脱していたが、劇場や映画館へ行ける程健常には回復していなかった。

 

私と父は劇場で会う約束をしていた。

その日は他にすることも無いのに、モタモタしてヘアも整わず1時間ほど遅れそうになった。

 

母が出がけに「どなたかを路子に紹介するってお父さんがいっていたわよ」と送りだしてくれた。

 

母の言葉からすると、父がひそかに仕組んだお見合いかと察しられた。

 

劇場では華麗な「白鳥の湖」が演じられていた。

 

私は案内嬢に導かれ静かに父の隣に座った。

 

舞台照明が照らすほの暗い座席に座る人が、軽く礼をするのを感じた。それだけのことだ。

 

両親も結婚をやっきと促すわけでは無かった。

 

たとえ勧めても聞く耳を持つ娘だとは考えていなかったろう。

 

私は両親にも周囲にも30歳までは結婚しないと広言してもいた。

山野愛子先生

私はサンケイホールで山野愛子先生に出会った時、免許を持つ美容師だと最初に伝えたが、出身校が日本美容専門学校と言いだせずにいた。

 

「私は、山野専科で3ヶ月勉強させて頂きました」とだけ言った。

 

「山野和子先生には可愛がって頂きました」と付け加えた。

 

「和子は私の姪で、教え方も巧いでしょ。14歳ぐらいから、私のそばで修業しましたからね」と機嫌よく答えた。

 

私は、ますます、出身校について言い出せないでいた。

 

当時、山野美容学校の生徒数の受け入れ人数が群を抜く多人数だった。

 

全国美容師の8割が山野美容専門学校出身者との情報を私も知っていた。

 

「品川さんはどこの美容学校を卒業なさったの」

 

・・・・・・やっぱりと思ったが、隠すことはできない。

 

私が美容師資格を取得しようと決意に至った経緯を説明。

 

メンターのアドヴァイスに従ったことなど伝えた。

 

「先生の学校に入学したかったのですが、秋期の募集があった日本美容専門学校の秋期クラスに入学しました」事実だから目をそらす事はないと、私は山野愛子氏の視線を捉えた。

「ああ、網倉妃葉子さんの学校ね。網倉さんや、路子さんに魅力学を勧めた丸尾長顕さんとも親しくしていますのよ」と笑顔で言った。

 

ほっとして「そうだったんですか」と私も笑顔を返した。

 

その日は、山野愛子氏には美青年が付き人のように従っていた。

 

紹介されると、6人の息子さんの5男ということだった。

 

親しみやすい謙虚な態度に好感がもてた。

 

「父も母も、本当は女の子が欲しかったのですが、僕ら兄弟は男ばかりで、母はいまだに女の子がいたらと思っているみたいです」「私は、兄2人に弟ひとりで女の子はひとりなので、凄く可愛がられています」

 

「母はモデルさんやミスコンの方たちを可愛がりますね。品川さんの事も気にいったと思います」

 

イケメン青年の息子さんの言葉は素直に嬉しかった。

 

間もなくすると山野愛子先生から自宅に遊びにこないかと連絡があった。

 

ビューティ・チャームコンサルタントの集客もままならい状況にあった時で、山野愛子先生じきじきの誘いにワクワクした。

 

何か、新しい展開が始まるような気がしていた。

 

自宅に伺うと、先日パーティで会った息子さんとは違う、これまたイケメンの青年が出迎えてくれた。

 

青年は6男の末っ子だった。

 

広い玄関の壁の中央には東郷青児画伯の100号位の絵画が飾られ、横の壁には現・上皇が学習院生の皇太子の頃の乗馬姿。

 

数人の学友ひとりが長男だと弟の青年が教えてくれた。

自宅でくつろぐ山野愛子先生はウイッグを脱ぎ、普段着の和服姿で「あらいらっしゃい」と独特のすこししゃがれたた声で迎えてくれた。

 

しばらくするとは銀髪にメガネをかけ派手な和服を着た山野治一理事長がリビングに現れた。

 

私は一瞬、時代劇の親分のような風格と粋なカッコよさを感じた。そこで、私は愛子先生から仕事の依頼を受けた。

 

1960年時代は長く身を潜めるようにしていた女性の活躍も目立ち始めていた。

 

当時山野愛子先生はトータル美容を推進中だった。

 

美容を顔や髪だけではなく体の手入れもしっかり取り入れるべきだとメディアでも公表していた。

体の手入れとは、今で言うエステのことだ。エステに使うコスメもすでに開発、販売もしていた。泥状の素材を体中にパックする、その名も「どろんこ美容」。

女性たちの美意識が高まる時代の要請にあわせトータル美容=どろんこ美容をもっとメディアに訴求したい。

 

それを実現するために山中湖に新設されたホテル内に全身美容のサロンをオープン。

 

そこで働くスタッフに魅力学を指導してくれとの事だった。

 

山野愛子先生が、私に説明をしている間、山野理事長や息子さん2人も同席していた。

 

こうして、私はご夫妻と共に山中湖のマウントフジホテルに向かった。

 

運転手付きの外車に、私はお二人の間の席に座りドライブしたのだ。

光栄ではあったが、あまりに偉過ぎるお二人に挟まってのドライブはくたびれた。

 

1日目の研修が終わるとご夫妻は東京へと帰り私は翌日までひとり残った。

 

顔や体のメンテとそれだけにとどまらない。

 

「魅力の引き出し方」の研修を続けるためだった。

 

山野愛子先生は

「明日は次男が迎えにきます。アメリカから帰国したばかりだけど、面白い息子よ。」

 

5男、6男のイケメンにはすでに会った。今度は次男さんか。その人もイケメンな人だろうと期待も高まってもおかしくはないだろう。

 

こうして私は結婚相手に出会い、新たな運命のあの時を迎える。