【マダム路子・自分史(第26話)】山中湖の出会いと、人生の歯車を大きく変える決断

1963年7月、山中湖畔・標高1,100メートルの山頂に、ホテルマウント富士が誕生。全ての客室から山中湖の美しき湖面と雄大な富士山が眺められる。その雄大な景色を眺めながら「華麗に変身」するための会員制サロン「山野愛子総合美容サロン」がオープンすることになった。
2020/09/13

高い品格と「おもてなし」

山中湖にて

日常から離れ、総合美容を受けるためにホテルマウント富士に宿泊する会員さんは、それなりの経費を支払える階級だ。

 

当然、担当する美容師も「華麗に変身」させられる技術と共に「品格」と「優雅なおもてなし」が求められる。

 

山野愛子先生は、私にサロンに従事する美容師に向けて接客マナー、言葉遣い、表情。

 

振る舞い、笑顔の方法を指導して欲しいとのことだった。

 

それが優雅な「おもてなし」となり客の信頼を得て口コミも広がり会員も増やせる。

 

責任の大きな依頼内容だった。

 

こうした大切な指導を、23歳になりたての私に担当を任せたのは、山野愛子先生の英断だったのか。

 

それとも私の実力を計って見たいと思われたのだろうか。

 

午前の講義を終え、食事をする前に新鮮な空気を吸おうとホテル前の通路に出て富士山を仰いだ。

 

眼前に聳える美しい富士の山。

 

9月の清々しい空気を深く息を吸い込んだ。

 

ゆっくり周囲を見回したが誰もいない。

 

ホテルには駐車場があったが、一般道路より高い位置だったので、湖畔を散策するには階段をおりた道にでる。

 

私は階段の上から見下ろした。

 

陽炎のように浮かぶ人影が見えたのでギクッとした。

 

山野愛子夫妻は「次男が迎えにくるわ」と言い残して東京に帰られたので、次男さんかなと一瞬思ったが、ちがうと自分に答えた。

 

なぜなら陽炎のように見えた人影が明確な形になってきたら、あごひげを生やした小柄で肥満した男の姿になったからだ。

 

先に出会った5男、6男の二人は身長も高く貴公子然としたイケメンだった。

 

だから私次男も長身の2枚目と決め込んでいた。

 

しかし、階下から私を見上げている人は想像していた男性のイメージとはあまりにもかけ離れていた。

 

私はこの人ではないと確信し、ホテル内に戻った。

 

ランチをひとりで食べていると先ほどの男性ともう一人の男性が、私のテーブルの前に立った。

 

丸顔の童顔なのに顎鬚を10cmぐらい生やしている。まとめにくい印象に戸惑いながら私は彼を見上げた。

出会い、そして第一印象からの更新

サンケイ
文芸春秋

「品川路子さんですか。山野愛子の息子のヨシアキです」

 

やっぱりこの人が次男なのだと、内心の期待外れの気持ちを隠し、思い切りの笑顔で私は頭を下げ挨拶をした。

 

「こちらはHさん、中国から遊びに来ている友達です」Hさんは大柄で一見強面だが、愛嬌満面の笑顔で、英語で挨拶した。

 

私はこれから午後の講座もあると告げると、二人は頷き、研修が終わったら一緒に食事をする約束をした。

 

備え付けのジムで6人の美容師にウォーキングやポーズをレクチュアしていると、先ほどの二人がジムに立っていた。

 

チーフが何事かと近づいたが、すぐに戻ってきた。

 

「ヨシアキ先生が、少しだけ見学なさりたいそうです」と言った。

 

やりにくいと思ったが、そのまま講義と実地訓練を続けた。ヨシアキ氏はキャノンのカメラでその様子を撮影していた。

 

この日は彼ら二人も宿泊するとの事で夜は3人で食事をし山中湖畔をドライブした。

 

時間がたつにつれ、ヨシアキ氏は中国の友達と私がおぼつかない言語を屈指して話そうとすると割ってはいり、私の視線を自分に向けるように強引に話しかけてくるようになった。

 

私に向けるヨシアキ氏の気配を察したのか、中国の友人は先にホテルの部屋へ戻った。

 

二人だけになった。すると、彼は先ほどとは打って変わり沈黙。普段は饒舌な私だったが私も言葉を発しなかった。

 

ヨシアキ氏、山中湖も見えない深い闇の中を走ったり停まったりしながら、自分の事を語りだした。

 

ヨシアキ氏は学習院高校を卒業後に美容師資格取得。

 

銀座の山野愛子サロン勤務。

 

早くから海外に出て技術指導をして回ったそうだ。

 

ヨシアキ氏はこの時25歳。

 

25歳の若さで、海外に技術指導に行かれるほどの技量をもっていたのか。

 

「言葉の壁」はどうしたのかと、次々に疑問が沸いてにわかには信じられない気持ちを抑えて、彼の言葉に耳を傾けた。

 

「たとえば、カットやセットを巧く仕上げたとしても、愛子先生の息子さんだから血筋よねと言われる。何をやってもね」と彼は慨嘆しため息をついた。

 

25歳の若さで世界を回れる実力があるなら、それが血筋であろうとなかろうと凄いじゃないかと、私は言った。

 

私を見る目の丸顔童顔は、弟さん二人との顔つきとちがうことを急に確認した。

 

山野愛子先生を男子にしたように酷似している。

 

顔が酷似しているように、技術習得も天才的な要素を引き継いだのかもしれないと思った。

そして、スピード婚へ

週刊実話

「おふくろが、山中湖に講師の方を迎えに行ってねと言われて来たのだけど。こんな若い講師だとは驚いたよ」と、今度はヨシアキ氏が私のプロフィールの詳細を聴いてきた。

 

「どんな講師を想像していましたか」

 

「何だか難しい学問を教える先生だと言っていたな」

 

「魅力学です」

 

「そうだった。魅力学とは洒落た名前だと思った。そんな難しそうな学問の講師がこんな若い美人だとは」

 

「光栄ですわ」

 

「ヨシアキさんだってまだ25歳で、海外の講師になれるなんて素晴らしいわ」

 

ヨシアキ氏の赤裸々な告白めいた話を聞いたので、私も一気に自分の不安な気持ちを話す気になった。

 

親にも親友にさえ話したことのない心情を語った。

 

日本初の魅力研究家・美容家としてデビューはできたが、挫折にもへこたれず大先輩たちやマスコミの応援を受け、敬愛する山野愛子先生からお仕事も依頼されたが、これから先の道が決められない不安を素直に打ち明けた。

 

「路子さん、おれたち、何か似ている気がする。実態と世間の目との間で生きているかなってさ。おふくろに関係なくまた会おうよ」

 

童顔丸顔で女子が羨むような長いまつげの彼の顔が、初印象とは異なり「この人、いい男だ」と情報を上書きし始めていた。

 

この日をきっかけに、二人は恋人同士となった。

 

彼は、地方の美容組合からの依頼で技術指導に出向く美容界の売れっ子講師。

 

私はフリーで雑誌を中心にした魅力学や美容の仕事が増えていた。

 

また個人宅に出向いての指導依頼もくるようになり共に経済力も高くなりつつあった。

 

仕事も面白く恋人関係も楽しく過せていたので、二人とも結婚を前提にした交際ではあった。

 

しかし、すぐに結婚するには早い。

 

自分たちの未熟さも充分に理解している。

 

2年なり3年付き合い、貯金もしてから結婚を真剣に考えはじめようと合意していた。

 

マスコミに書かれたように、付き合いはじめて3か月後にプロポ-ズを受け翌年の1月に結婚。

 

確かにこれは事実ではあるが、二人がプランしていた人生設計図ではなかったのだ。

 

結婚式が早まったのは私が妊娠したからだ。

 

「出来ちゃった結婚」と言われがちだが、もちろん、私は産むという思いしかなく、世間体を慮り始末する気など全くなかった。

 

彼の方で世間体が悪いと言うなら、彼と別れてでも「産む」と両親に宣言をした。

 

彼も子供好きであり、私の早すぎる妊娠をむしろ歓迎してくれた。

 

いまなら、それほど問題にもならない婚前妊娠。

 

しかし1963年当時は、とてつもない「ふしだら&掟破り」であった。

 

私の初出産は7月が予定日。

 

1月ならまだ、妊娠3か月。お腹も目立たない。

 

大人たちの判断は私たちにとってもありがたい感謝すべき事だった。

 

私たちは恋人同士から一足飛びに親になるという選択をした。

 

だが、こうして裏事情を秘めた結婚は、人生の歯車を大きく変えてしまうことになる。