義姉とゴンドラに乗って
山野和子先生
2回目に結婚衣装を纏い紹介された会場は、山野美容専門学校に併設された山野ホールだった。
1500人が収容できる大ホール。
在校生と教職員たちの視点が私に向けられる。
多数の生徒たちを前にして、日本美容専門学校とのスケールの違いを感じた。
だからと言って、日本美容専門学校出身を卑下する気はまったく沸きあがってこない。
“2代目山野愛子”になり、これら多くの受講生の前に立つかも知れないなどという気持ちは、さらに沸いてこない。
しかし、美容界の教祖と崇めている人たちからすれば、マスメディアの記事に書かれた品川路子という存在は、居場所を間違え侵入してきた疫病神、敵と思う気持ちになるかもしれないと理解できた。
3回目の開宴場所は、1961年10月に東京・赤坂田町5丁目(現・赤坂2丁目)で開業されたレストラン・ミカド。
ロスアンゼルスでビューティスクールを経営し、すでに結婚していた長男夫妻が一時帰国しての合同披露宴だ。
800名を超える人々を招待しての開催だった。
このレストランは中部観光の経営者・山田泰吉氏が、来るべき1964年東京オリンピックでの外国人客を見込み、5年の歳月と当時の金額で15億円の巨費を投じた、地上6階建て延床面積2千余坪を以って完成されたものだ。
国際社交場にふさわしい大噴水ショー、レヴューなど世界の一流ショーを売り物とし、内外装、調度品ともに豪華さの粋を集めたレストランシアター。
私たちもレストランの客として席についたことがあり、巨大なステージ、レストランの威容に驚かされていた。
一般的なホテルとは異なる、話題に事欠かない会場だった。
レストラン・ミカドでの披露宴開催は山野治一・山野愛子夫妻の意向だが、特に熱望したのは山野愛子校長だった。
私たちはステージで純白の表地を見せ、その場で裏を返すと深紅の打掛に変わる。
引き抜きという技術で振袖のお色直し。
すべて山野愛子校長が仕切った。
私たちが引いている間には、祝辞やダンスがステージ上で行われていた。
そして、楽屋でドレスに着替えた私たちはゴンドラに乗って登場。
10メートル余りある天井。
度胆を抜かれたお客たちはしばし呆然。
その後に割れんばかりの大拍手。
この時、義姉も私も初めての妊娠で体調も優れない時もあった。
諸々神経を遣う日々。
見上げるような高い位置で、しかも揺れて動く安定しないゴンドラに乗るなど、義姉も私も不安と恐怖心で一杯だった。
義姉はアメリカ生まれの3世。
日本語よりも英語の方が堪能。
明るくて、綺麗で、物腰がよく日本的礼儀にも通じ、姉として敬愛するにふさわしい麗人だ。
義姉も私を気に入ってくれ、すぐに打ち解けた。
披露宴でゴンドラに乗る怖さを夫たちに伝えたが、「大丈夫」と一言。
回避はできなかった。
私たち二人は励まし合い、恐怖を乗り越えようと誓い合った。
緊張続きの祝宴もこれが最後と、遥か下に着座している招待客に向かい、高所恐怖症と共に、こみ上げるツワリの気持ち悪さを同時に飲み込み、思い切りの笑顔で手を振った。
チラと横目で義姉を見ると、同じような満面の笑顔で応えていた。
こうして結構式、披露宴のイベントは終わった。
私は、兄夫婦にずっと日本にいて欲しいと願ったが叶わぬ思い。
二人は間もなくしてロスアンゼルスに帰国した。
これら一連の流れで嬉しかったのは母が出席してくれたことだった。
リウマチが完全に治癒したわけではないが、少しの時間なら立っていることもできるようになり、トイレにも行かれた。
山野美容王国
いよいよ、本格的に結婚生活が始まった。
23歳と25歳で夫婦になった私たちのスイートホームは、表参道の1DKのマンションだった。
両親が買い整えてくれた和洋タンスと整理タンスが6畳間を占領し、キッチンには戸棚を置くだけで精一杯の広さ。
部屋は1階で、目の前に駐車場があった。
その日、私はマンションの階段と駐車場前の掃除をしていた。
気が付くとひとりの男性が立っていた。
2代目とマスコミで騒がれている山野路子を取材にきた記者だった。
「あのう、山野路子さんでしょうか」とその人が、私を覗き込むような姿勢で訪ねた。
膨らみ始めたお腹を隠すように割烹着で、掃除している私が、目指す取材対象の人物だと判明し、驚く様子がおかしかった。
業界誌の中でも毒のある描きかたをするのが売りの雑誌社。
取材を申し込まれた時、神経を逆なでする記事になるかもしれないと、断ろうと思った。
しかし、その方が勝手に何を書かれるかわからないので、受けたのだった。
私は6畳の部屋に座布団を出し、30代らしき記者にすすめた。
魅力研究家・美容家の肩書でデビューした品川路子。
超豪華な披露宴でヤマノファミリーの一員になった事も大々的に報じられた。
まさにシンデレラストーリー。
お手伝いさんが豪奢なリビングルームに迎え入れてくれ、フカフカのソファに案内されるといった風なメージを抱いていたのではないだろうか。
記者のそんな気持ちが手にとるように分かったが、そんな気持ちを忖度せず、お茶を淹れ私もやや重くなった体を「よいしょ」と声に出し座り対峙した。
取材の目的は、突然出現した品川路子というオ・ン・ナと山野美容王国の方々との闘いを書くのだそうだ。
想定内の事で、いまさら驚く取材ではない。困るのは、話すべきことなど何もない事だ。
山野は学校、山野美容サロン、美容材料を卸す美容商事の3本柱を中心に、親族一同で運営していた。
その中のひとつ山野美容銀座サロンに夫は勤務。私はどこにも属していない。
結婚しても仕事は続けていく事は認められていたので、従来通り、フリーでメディアの仕事を中心に活動している。
つまり、王国たる存在が有ろうと無かろうと、私は山野ファミリーの事業のどこにも属していないのだ。
所属したいとも思っていなかった。
特にこの時は、無事に子供を出産することだけが心を占めている。
だから、仕事などする気にもなれないのだ。
落ち着くまで、山野邸で暮らすようにと言われたが、それも拒否した。
狭くても自費で借りたこのマンションが、都会の中心で仕事をする私には都合のよい立地。
「二人の収入に合わせた生活です。私は満足しています。」と言い切った。
私は自分の言葉に、我ながら自分の決意を改めて感じた。
山野美容王国と世間は言うが、どうしてもそこまで規模が大きいとは伝わってこないのだ。
この日の取材は「私は王国を奪わない!」というタイトルが表紙に掲げられたが、私の人格を傷つけるような文言はなかった。
1DKのキッチン取材
主婦の友取材(6ヶ月の頃)
週刊女性取材・右端母
出産予定日のテレビ出演
私は可能な限り自分を飾らず、マスコミで仕事をする人たちとの交流を深めていった。
これは、品川時代から私が築いてきた交流であり、人脈だ。
山野ファミリーのおかげではない。
この私の強気な姿勢が、結婚生活にも大きく影響していくことになっていくのだが、初産を迎える私はそれどころではない。
普通、ツワリは3ヶ月程度で治まることが多いそうだが、私の場合、8ヶ月ぐらいまでムカムカする吐き気に悩まされた。
しかも、予定日を過ぎても陣痛がこない。その予定日にあたる日にテレビ出演の依頼。
事情を話して断ると、直接担当ディレクターの渡邊みどりさんに説得された。
妊娠をしていても仕事をする立派な女性の魅力研究家・美容家として紹介。
当日は万が一に備え、産院に運ぶ車も用意すると強引に口説く。
渡邊みどりさんとは現在、日本の皇室ジャーナリストで、文化女子大学客員教授。
ネットには、日本テレビ放送網 報道局エグゼクティブ・プロデューサーを務めたとも書かれている。
当時のテレビには、妊娠中に出演するタレントや女優、いや女性は、各界のどこにもいなかった。
ましてや臨月の予定日に出演する危険な暴挙を実施するなど前例がない。
しかし、私の活動の【志】の根っこには、今まで人が避け、やってこなかったことに挑戦するという生き方を「主義」としてここまで来た。
子供を産んでも仕事を続ける決意をしている私の姿をマスコに知らせるチャンスだとも判断した。
無事テレビ出演終了後、7月26日に長女中原晴美を出産。
後年、あるパーティ-で渡邊みどりさんにお会いしてこの時の話が出ると、「随分、無理なお願いをしたもんだわね、それに応えてくれた路子さんも度胸があったわ」と大笑いしていた。
初産の予定日・日本 テレビ