【マダム路子・自分史(第28話)】出産をとりまく、周囲の様々な感情。

自分史の原稿をPCに打ち込んでいると、消防車の大きなサイレンがマンションに響き、驚いた。どこからか火の手が上がったのかと思い、とっさに外に出た。夕闇の中に真っ赤な炎と細かい火の吹雪が舞っている。近距離だが、道を一つ隔てているので類焼の心配はない。が、やはり怖いと身震いがした。過去にもこんな風景があったことが、記憶によみがえってきた。
2020/10/11

1964年7月26日

1964年7月26日、私は24歳で長女(中原晴美)の母になった。

 

長く続いた激しいつわりに苦しみ、予定日は2週間も遅れた。

 

その間にも仕事と家事をこなした。

 

ようやく産院に行ったが、初産は長くかかるとはいえ、誕生までに2日間だった。

 

その間に、母も来てくれたが、母の体調では長くはいられないが、顔を見ただけでもホっとした。

 

私の義姉妹や山野和子さんたちも入れ替わりに来てくれては微弱陣痛に苦しむ私の腰をさすってくれる。

 

この産院は、義母・山野愛子の姉の自宅近くにあった個人経営。

 

山野和子先生が出産し、その縁で、結婚前に私が妊娠の有無を診てもらった経緯があったので、当院でお産をすることを勧められたのだった。

 

夜中にも、義母は来てくれた。浴衣の裾をからげ、私の腰をさすってくれたのはありがたい事だと思った。

 

夫は「女の子かな、女の子が欲しいなあ」と囁いては、近くの伯母の家に戻る事を繰り返していた。

 

大騒ぎをしたが、また、陣痛がおさまってしまったので、狭い院内なので全員が引き上げた。

 

私は開放された窓から煌々と輝く空を見た。産院の窓から月の光を浴びるといった経験はこの時だけだ。

 

夫と知り合ってから10ヶ月。今、母になる状況にいる。

 

人生とは、こんなに急激に変わるものなのか、だが、自然に変化したわけではない。

 

自分が選択したのだ。

 

何があろうと生まれてくる子供を守らなければならないと、パンクしそうなお腹を撫でた。

 

当時は、妊娠中に胎児の男女を分別できる医療技術は未開発だった。

 

日本の結婚では最初の子供は、男子を産む事を期待される。

 

その家の後継を担わせるためにだが、山野家の後継者のとらえ方は通常とは違っていた。

 

山野一族の中心ビジネスは教育事業の山野美容専門学校。

 

経営は山野治一。

 

山野愛子校長は生徒の育成。

 

後継者は校長を引き継ぐ女性と決まっていた。

 

当時、山野和子副校長と、山野治一総長の弟の妻が副校長に就任していた。

 

普通なら、副校長のどちらかが後継者を引き継ぐのだが、2代目は、山野和子副校長との噂はあったが、まだ、未定だった。

 

義父母の山野夫妻は、できれば自分の血を継ぐ孫娘に繋げたいという願望を持っていると日頃から夫から聞かされていた。

 

昔はキツイ顔つきになると男の子、優しい顔つきになれば女の子と(もしかして反対かもしれない)根拠のない判断をしたりしていた。

 

私は、お腹にいる赤ん坊は「女の子」と、なぜか確信していた。

 

私は膨らんだお腹に向かい「あなたは、女の子だわね」と心の中で話しかけた。

 

男兄弟の中で、常に姉妹が欲しいと願っていた。

 

その思いが女の子を授かることで叶えられると決めていた。

 

山野家の後継者である女の子を産むのではない。

 

自分が女の子の母親になる熱望が叶うと考えていたのだ。

山野ファミリ―の女の子

中原晴美出産

願い通りに私は女の子を産んだ。

 

予定日を2週間も遅れて生まれたせいか、髪も長く爪も鋭く伸びていた。

 

髪の毛の先は金髪に輝いている。

 

「さすが美容一家の孫らしくお腹の中でヘアカラーをしてきたのかな」と夫は埒もない冗談を言った。

 

夫は狂気乱舞して喜び、あちこちに連絡。

 

山野家の関係者、品川家の関係者が次々に訪れ祝ってくれ、誰もが必ず「女の子でよかったわね」と言った。

 

私は、山野家の嫁として女の子を産むという“責務”も果たした。

 

初孫の誕生に、山野家の義父母も大喜びだ。

 

普段は、家族にはめったに笑顔を見せない山野治一総長も、晴美の顔を見ると信じられないほど優しい笑顔になった。

 

義母・山野愛子は「まあ、ヨシアキちゃんにそっくり」が娘の顔を見たときの第一声だった。

 

その言葉を聞いて私はほっとした。

 

なぜほっとしたのかと言えば、早過ぎる私たちの結婚に眉を顰めるスタッタも数多くいる中で義父母は結婚を許してくれたのだ。

 

出産はスタッフにも説得力となる。

 

これでようやく山野一族のひとりとしての立ち位置ができたと実感が得られたからだ。

 

夫もまた、娘が生まれた事で山野ファミリ―に対して鼻高々だった。

 

カメラ好きの夫は、娘といる間は写真を撮りまくっていた。

 

自分だけではなく、カメラマン志望の従弟にも依頼して写真を撮る。

 

娘を愛でる夫の姿は私も嬉しかった。

 

また、喜びの声や人々の笑顔は、無条件に嬉しかった。

 

こうした皆さんの笑顔を裏切らないように私も、しっかりと親としての責任を果たさなければと身の引き締まる思いを持った。

 

同時に夫にも、父親になった事によって、一家の大黒柱という自覚が芽生えることを願った。

 

私の両親には、すでに男女3人の孫がいたが、一人増えた孫の誕生を同じように喜んでくれた。

父と立ち姿の母

新宿の一大事業

実家に1ヶ月程滞在して、私は自宅に帰った。

 

娘が誕生した頃、私たちの住いは新宿に移っていた。

 

今度は2DKのマンションの1階だった。

 

いくら何でも表参道の1DKでは狭すぎた。

 

新宿に住む理由は、山野愛子美容サロンが新宿東口駅前にオープン。

 

サロン責任者に夫が就任したからだった。

 

このサロンオープンには今までのサロンには無い、大きな違いがあった。

 

山野愛子美容室の直系はすべて土地もサロンも自社だ。

 

しかし、東口駅前の新美容サロンはすべて賃貸である。

 

そのためランニングコストがかかる。

 

新宿の商業地域だから、半端な金額ではない。

 

山野一族のビジネスとして美容サロン経営と美容材料商も大きな収益を取得する重要な部門である。

 

終戦後に取得できた土地のように戦後20年を超えた時代に土地もビルも自社で賄うなど至難の業だった。

 

そんな中、全国各地に美容サロンがオープンされるのが時代の潮流になっていた。

 

新宿には伊勢丹デパート内に200坪もあるような美容サロンがすでに開業し、成功をおさめていた。

 

山野一族も、時代の流れを無視することはできない。

 

思い切った攻めの施策として新宿のサロンはオープンされたのだ。

 

2Fに受付とエステルーム。

 

3Fがサロン。

 

合わせて70坪程の広さだった。

 

責任者として就任したヨシアキ氏の責任は大きかった。

危機管理と5万円

産後6か月のボディ取材

こうした中で親子3人暮らしの生活が始まった。

 

そんなある日。私と娘が二人でいる時に、消防車のサイレンが大きく鳴り響いた。

 

ドアを開けると目の前の家から黒煙が上がっていた。

 

私は急いで娘を抱き、とっさに預金通帳と、おしめの束をバッグに押し込み、表に出た。

 

野次馬が見守る中、すぐに火事はおさまった。

 

私は落ち着くと娘を抱きしめながら一人で笑ってしまった。

 

預金通帳はともかく、おしめを抱えている自分がおかしかった。

 

この頃は東京砂漠と言われ雨が降らず断水が継続的に続いていた。

 

まだ、貸しおむつの存在も知らず、使い捨てオムツなども無い時代だ。

 

水が出ている間にオムツを洗うのだが、乾燥するのが間に合わない時には、アイロンで乾かしたりもしていた。

 

新米ママの私は、授乳とオムツ作業に追われながら家事にも取り組み、エッセイなど家でできることを始めていた。

 

ヨシアキ氏も新宿サロンの開店準備で多忙と思うので、家事、育児を頼むことはできるだけ避けていた。

 

そんな日々の中で起こった火事騒ぎ。

 

子供を守る気持ちと、貯金通帳とオムツの持ち出しについては多少の自嘲まじりで報告をした。

 

ヨシアキ氏は娘を抱きあげると

 

「晴美のマミーはそそっかしいな、でもさ、オシメを持つなんて、素晴らしいよな。晴美を愛すればこそだな、きっとダディーもそうしたよ」

 

私は、ヨシアキ氏が私の行動を茶化しながらも娘への危機管理は認めてくれたと嬉しかった。

 

しかし、次の言葉で私の気持ちはいっきょうに冷えていった。

 

「貯金があるなら、5万円貸してくれないかなあ」

 

私は独身時代から貯めていた貯金の存在を夫には言わないでいた。

 

私は、即座に後悔した。不安が的中したことが悲しかった。

 

なぜ、5万円が必要なのかも言わず、「必ず返すから」を繰り返す。

 

泣き始めた娘を抱きしめ私はヨシアキ氏を睨み続けていた。

 

電話が鳴った。

 

急いで受話器を取ると、はいとうなずき「オレ、ちょっと人に会うので出てくるけど、頼むから5万だけ貸してくれよな」と言いおいてヨシアキ氏は家を出て行ってしまった。

 

私は3ヶ月後、メディアの仕事に復帰した。

東京中日新聞連載