【マダム路子・自分史(第30話)】ポンコツクラシックカーと、ハワイ渡航

1964年、私の初めて海外旅行はハワイだった。義母・山野愛子にハワイで美容トークショーのイベント依頼がきた。私が山野愛子の秘書兼モデルとして同道するよう言われ、連れて行ってくれる事になったのだ。 ハワイでのイベント終了後は、長兄夫妻が暮らすロスアンゼルスに向かい、1ヶ月程滞在しなさいとの事だ。海外に行かれる魅力は大きくワクワクした。だが、渡航費用は自費でと告げられた。私は、現在の自分たちの経済状況では高額な費用がかかる海外渡航は無理だと思った。 私の胸中を察し、夫がとってくれた思いがけない行為で、私の初めての海外旅行であり、研修と遊学の旅は果たされた。
2020/12/24

ハワイ渡航が決まる3か月程前

話を戻そう。ハワイ渡航が決まる3か月程前のある日。

 

夫が私に理由も告げず「至急、5万円貸してくれないか」と言ったのは、新たに車を購入するための頭金だった。

 

クラシックなスポーツーカーで45万。

 

スポーツーカーと言ってもせいぜい時速45kmで走るのがやっとのポンコツカーだった。

 

私が自分で運転する事を禁じているのに、私のためだと言い張る夫の言葉に対してしばらく口を聞かないくらい腹をたてていた。

 

なぜなら、私は免許は取得していたが、運転はしない!と決めていたからだ。

 

私は独身時代の19歳の時に自動車教習所に通った。

 

教習所では初日から教習所の木の塀にぶつかる度胸満点の運転ぶり。

 

1回のテストで免許を取得。

 

仮免で町中の運転も経験していたので、父や兄にその腕前を見せたいと思った。

 

父と兄は、杉並の高円寺の自宅から父の会社の大田区の馬込まで、兄がナビゲーターになってくれて初運転。

 

教習所で走っている時とは違い怖いと感じ焦って運転するのを、兄がフォローしてくれて、汗だくになりながら父の会社に着いた。

 

車を降りた父が「練習をしなさい」と私の肩をたたいた。

 

兄は苦笑いしながら、「慎重にな!」と言った。

 

私は、運動神経は悪い方ではなかったが、自他共に認める超のつく地理音痴なのだ。

 

運転には地理を直ちに読める能力が必須だと分かったのだ。

 

1960年の初頭は、まだ女性ドライバーも少ない時代。

 

だからこそ私は、かっこよく運転する姿を想像し教習所に通ったのだったが。

 

実際に、ひとりで運転していると、女性ドライバーだと見てとると、男たちが悪戯したり、からかったりする。

 

車をギリギリまで近づけ、私の顔を見て大声をかけてきたりする。

 

そんなことに負けてなるかと、ある時、自宅から青梅街道に出た。新宿~荻窪間を路面電車が走っている頃だ。

 

その路線を一巡すれば帰宅できると地図の読めない頭で考えたのだ。

 

だが、甘かった。

 

両脇にトラックに挟まれ、恐怖で体が震えて息が上がった。

 

ようやく2台のトンネルのような車間をくぐり抜けた。ほっとする間もなく、男たちの車がビュンビュンとすり抜けて行く。

 

私は何とか、この道を抜け出そうとするのだが、恐怖で混乱した私は思考停止。

 

自分の家に帰る道が分からなくなっていた。

 

停車するわけにも行かず、前方を見詰め、ひたすら真っ直ぐに走っていたら、白バイに止められた。

 

おまわりさんが「待て」と手を上げて車を静止させた。

 

私の車の後続につながる車からは「早くしろ!」「こっちは急いでいる」と、怒声と罵声が青梅街道に鳴り響いた。私は車外に出た。

 

多くの人が窓に首を出すようして覗いた。

 

スクっと立った私が、若い女性と分かったからか、街道は一瞬静かになった。

 

申し訳なく思った私は、「女優志願」で得た舞台度胸を屈指し両手を上げ左右に大きく振り「みなさん、ご迷惑をかけゴメンナサイ」と、お声を張り上げ、一礼した。

 

怒声、罵声を受けるのを覚悟していたが、思いもかけず「いいよ、いいよ、待ってやるよ」とか、ヒュウ!ヒュウとシュプレヒコ―ルが飛び交った。

 

運転の下手くそな若い娘に男たちは優しかった。

 

私は泣きそうになりながら、車に戻り路肩に寄せ、おまわりさんに免許証を渡した。

 

免許を差し出すと「6ヶ月も前に免許取得しているし、事故歴もない。あなたの運転はスピード違反じゃなくて速度が遅すぎて危険なんだよ」と言われた。

 

「分かっているのですが、私はどこに向かったらいいのでしょうかおまわりさん、」と私は情けない質問をした。

 

若くイケメンのおまわりさんは、私の質問に思わず笑いそうになりながら、「あなたは、自分の行く先もわからないのか」と言い丁寧に走るべき道筋を教えてくれた。

 

おまわりさんが、再び、青梅街道にズラリと並んだ車に一礼してくれた。

 

私もお辞儀をしようとするとおまわりさんは急いで私を車中に押し込み「間違えないように走りなさい」と見送ってくれた。

 

両親や兄に話すと「路子がまだ、若い女の子だから許されたが、本当は危険だよ」と厳しく叱られた。

 

その後も、私はタクシーの後部にぶつける追突事故を起こし、タクシー会社に引率された。

 

このときも、大した損害でもないからと無罪放免してもらった。

日常生活と、3台の高級車

私の運転は、自分も危険だし、人様にも迷惑をかけると自認。

 

結婚後は自分が運転をすると言う意志はまったく無かった。

 

夫にも、これらの武勇伝は話してあったので、私に運転をするように勧めることはなかった。

 

それなのに強引に45万円で購入した車は「路子が運転するには丁度いいかと思ってさ」と言ったのだ。

 

私は心底腹を立てて抗議したが、5万円の手付を打ったので買うと言い張り、1930年代のフォード車のクラシックカーを我がものにした。

 

夫の言葉に渋々と従い、人通りのない場所で運転することを承知した。

 

夫が隣に陣取る。「アクセルを踏んでみろよ」と言われ、おそるおそるアクセルを踏んだ。

 

少しばかり加速はしたが、45キロしか出ない車はまどろっこしいほどのろのろと走った。

 

2ⅮKの家に暮らしながら、

 

スポーツーカーに改造した日本車、

 

金食い虫のジャガー。

 

さらにのろまな日常生活に適さないポンコツのクラッシックカー

 

3台。

 

駐車場は1台しかおけず、その頃はまだ取り締まりも緩かったので2台の車は近くの路上に駐車。

 

珍しい車には人が群れる。さわられ、いじられて傷がつく。

 

夫はイライラして怒るが犯人はわからず、修理に出すので家計の負担は増すばかり。

 

とにかく、生活維持のためには、私も可能な限り働かなければならなかった。

 

夫は、新宿の山野愛子サロンの経営を担っていたが、私はフリ―で雑誌を中心に美容やファッション指導や監修の仕事をしていた。

 

ある日、義母の山野愛子から夫婦で呼び出された。

 

改まって何の話だろうかと心が騒ぐ。

 

義母には海外に暮らす日本人ファンや知己も多い。

 

その中のひとりが、ハワイのホテルでビューティ&トークイベントを欧米の美容家を対象に開催する。

 

義母はすでに世界各地で欧米人を対象に講演経験済みだった。

 

今回の講演は、日系1世の方々が積極的に動いてくれたのより嬉しいと言った。

 

みなさん第二次世界大戦時に重く辛い経験をした方々が多い。

 

そうした1世の人々にとって、日本で成功を収めるにとどまらず、世界でも偉大な美容家となった義母は、ハワイ在住の方々にとっても我が事のように誇らしい存在なのだ。

 

「それでね。路子さんを私のショ―にモデルでステージに出て欲しいのよ、ウェディングドレスとリーゾートを着てね」

 

義母の意外な申し出に驚きながら、夫婦で顔を見合わせた。

 

1964年当時は、1ドルが360円。飛行機代は60万ぐらいかかる。

 

私も義母の笑顔に「ご一緒させてください」と義母に負けないくらいの笑顔でこたえたが。旅行費が自費となると、不可能だと思い下を向いた。

 

その時だった、夫が「わかったよ。その費用は俺が何とかするよ。

 

路子を連れてってください」と、夫は義母に頭を下げた。

 

費用は、私と夫の諍いの元凶になっている二台の車、ジャガーとフォードを売却し捻出して作ってくれたのだった。

 

自分の命の次ぐらいに大事にしていると、私には思えていた愛車を売り、私をハワイに行かせてくれた夫。

 

それまでの怒りや不信感が消えた。私が、結婚生活にイキイキと向き合える、嬉しい夫婦関係の変化だった。

 

このジャガーは当時の週刊誌「平凡」に買主と共に掲載されていた。

 

フォードはある喫茶店のシンボルとして大事に飾られていた。

 

珍しい店としてこちらも雑誌に紹介されているのを夫はじっと眺めていた。

ハワイの空

義母山野愛子とハワイ空港

ハワイ空港からホテルを車で走る間に視界にはいる広大な土地、木々の高さ。

 

こんな広く大きな土地をもつアメリカに日本は敗戦したのだと、複雑な思いを噛みしめた。

 

ハワイでの義母・山野愛子氏の人気は、想像を超えるもので、熱烈歓迎に、改めて義母の人気と実力の凄さを確認。

 

欧米から参加した多国籍の方々からもスタンディングオペㇾションで終了。

 

また、移民としてハワイにわたりご苦労を重ねながら、パイナップル農園や、トウモロコシ栽培などで、ハワイで成功なさった日系一世の方々は、優しくて、温かいお人柄の方ばかり。

 

モデルで出演した私も、ハワイで発売される女性誌は、2週間遅れで発売。

 

それらによく掲載されていたせいなのか、大歓迎して頂き感激。

 

親切な温かさはけして、私たちだけではなく、渡航してきた多くの日本人にも公平におもてなしを繰り返していらっしゃる方々だ。

 

広大な農園や畠も見学に連れていってもらい、世界は広いと心の視界が広がった。

 

義母・山野愛子は先に帰国。私はひとりでハワイからロスアンゼルスの機上の人となった。

 

ロスアンゼルスではどんな事に巡りあえるのか。私の新たな旅立ちが始まった。