話を戻そう。ハワイ渡航が決まる3か月程前のある日。
夫が私に理由も告げず「至急、5万円貸してくれないか」と言ったのは、新たに車を購入するための頭金だった。
クラシックなスポーツーカーで45万。
スポーツーカーと言ってもせいぜい時速45kmで走るのがやっとのポンコツカーだった。
私が自分で運転する事を禁じているのに、私のためだと言い張る夫の言葉に対してしばらく口を聞かないくらい腹をたてていた。
なぜなら、私は免許は取得していたが、運転はしない!と決めていたからだ。
私は独身時代の19歳の時に自動車教習所に通った。
教習所では初日から教習所の木の塀にぶつかる度胸満点の運転ぶり。
1回のテストで免許を取得。
仮免で町中の運転も経験していたので、父や兄にその腕前を見せたいと思った。
父と兄は、杉並の高円寺の自宅から父の会社の大田区の馬込まで、兄がナビゲーターになってくれて初運転。
教習所で走っている時とは違い怖いと感じ焦って運転するのを、兄がフォローしてくれて、汗だくになりながら父の会社に着いた。
車を降りた父が「練習をしなさい」と私の肩をたたいた。
兄は苦笑いしながら、「慎重にな!」と言った。
私は、運動神経は悪い方ではなかったが、自他共に認める超のつく地理音痴なのだ。
運転には地理を直ちに読める能力が必須だと分かったのだ。
1960年の初頭は、まだ女性ドライバーも少ない時代。
だからこそ私は、かっこよく運転する姿を想像し教習所に通ったのだったが。
実際に、ひとりで運転していると、女性ドライバーだと見てとると、男たちが悪戯したり、からかったりする。
車をギリギリまで近づけ、私の顔を見て大声をかけてきたりする。
そんなことに負けてなるかと、ある時、自宅から青梅街道に出た。新宿~荻窪間を路面電車が走っている頃だ。
その路線を一巡すれば帰宅できると地図の読めない頭で考えたのだ。
だが、甘かった。
両脇にトラックに挟まれ、恐怖で体が震えて息が上がった。
ようやく2台のトンネルのような車間をくぐり抜けた。ほっとする間もなく、男たちの車がビュンビュンとすり抜けて行く。
私は何とか、この道を抜け出そうとするのだが、恐怖で混乱した私は思考停止。
自分の家に帰る道が分からなくなっていた。
停車するわけにも行かず、前方を見詰め、ひたすら真っ直ぐに走っていたら、白バイに止められた。
おまわりさんが「待て」と手を上げて車を静止させた。
私の車の後続につながる車からは「早くしろ!」「こっちは急いでいる」と、怒声と罵声が青梅街道に鳴り響いた。私は車外に出た。
多くの人が窓に首を出すようして覗いた。
スクっと立った私が、若い女性と分かったからか、街道は一瞬静かになった。
申し訳なく思った私は、「女優志願」で得た舞台度胸を屈指し両手を上げ左右に大きく振り「みなさん、ご迷惑をかけゴメンナサイ」と、お声を張り上げ、一礼した。
怒声、罵声を受けるのを覚悟していたが、思いもかけず「いいよ、いいよ、待ってやるよ」とか、ヒュウ!ヒュウとシュプレヒコ―ルが飛び交った。
運転の下手くそな若い娘に男たちは優しかった。
私は泣きそうになりながら、車に戻り路肩に寄せ、おまわりさんに免許証を渡した。
免許を差し出すと「6ヶ月も前に免許取得しているし、事故歴もない。あなたの運転はスピード違反じゃなくて速度が遅すぎて危険なんだよ」と言われた。
「分かっているのですが、私はどこに向かったらいいのでしょうかおまわりさん、」と私は情けない質問をした。
若くイケメンのおまわりさんは、私の質問に思わず笑いそうになりながら、「あなたは、自分の行く先もわからないのか」と言い丁寧に走るべき道筋を教えてくれた。
おまわりさんが、再び、青梅街道にズラリと並んだ車に一礼してくれた。
私もお辞儀をしようとするとおまわりさんは急いで私を車中に押し込み「間違えないように走りなさい」と見送ってくれた。
両親や兄に話すと「路子がまだ、若い女の子だから許されたが、本当は危険だよ」と厳しく叱られた。
その後も、私はタクシーの後部にぶつける追突事故を起こし、タクシー会社に引率された。
このときも、大した損害でもないからと無罪放免してもらった。