史上初の正確な日本地図を、リタイア後に作り上げた伊能忠敬。彼の若き日の物語
伊能忠敬の偉業をたたえ、1995年に発行された記念切手
人生100年時代。
近年は日本だけでなく、世界中で高齢化社会が語られるようになりました。
それは人が元気に天寿をまっとうできる社会が、ようやく到来したことの証です。
「年齢は数字にすぎない」などとよく言われるようになりましたが、それは医療の発達した現代とだからこその話。
江戸時代の日本の平均寿命は、男女ともに40歳をやっと超えた程度でしたからね。
そんな江戸時代に50歳で本業をリタイアした後、「趣味」の世界で偉業を成し遂げた、江戸のスーパーシニアとよぶべき人物がいます。
彼の名は伊能忠敬(いのうただたか)。
史上初の実測日本地図を、しかもきわめて正確に作り上げた偉人です。今回からは彼の人生を追ってみたいと思います。
伊能忠敬の本業は酒造関係でした。
現在の千葉県・九十九里浜近辺で生まれた彼は、宝暦12(1762)年、名門酒造家だった伊能家に婿養子として入ります。
これが数えで18歳の時で、おそらくは才能を見込まれてのことだったのでしょう。
酒造家としての伊能家はすでに没落気味でした。
その立て直しに尽力するのが、伊能忠敬の前半生の仕事だったのです。彼は家業の立て直しだけをしていたわけではなく、米取引=米の仲買(つまり投資)で投資の才覚も発揮、財をなしたといわれています。
物事の奥に潜んでいる「ルール」を、くもりのない眼で見極めていく伊能忠敬の才能は、この時からすでに発揮されていたようですね。米の仲買で成功したということは、日本酒の材料となる米を吟味する中で、その流通システムに興味を抱き、ビジネスチャンスが存在することに彼は気づいていた、ということです。
米の仲買について
米の仲買について、その背景を簡単に説明しましょう。江戸時代、各藩は農民によって栽培・収穫された米の一部を税金として集めていました。いわゆる年貢ですね。
しかし藩の経営には現金も必要です。各藩は手に入れた米を日本中に販売することで、現金を手に入れていました。
その際、「米切手」と呼ばれる証文が使われることがありました。
伊能忠敬は、酒造家・伊能家の当主として、大量に米を仕入れていく際、米切手を使うことを覚えました。米切手の相場が時期によって上下するところに、ビジネスチャンスを見出したのでしょう。
このように現金利益を得ることで、彼は傾いた伊能家を見事、再生させることができたのです。婿養子というものは非常に肩身が狭いと聞きますが、そのプレッシャーを見事に跳ね返した形になりますね。
後年、彼が日本全国を行脚して作り上げた伊能版日本地図こと「伊能図」は、現代の日本地図と比べても1000分の1しか誤差のない正確さを誇ります。もちろん、ビジネスでも数字に対するセンスは必要です。いわば数字に強かったのが伊能忠敬という人物の長所でした。
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