これはそれこそ現代日本の年齢感覚ではリタイア年齢として設定されていることの多い、65歳に相当します。
寛政6(1794)年には江戸に移り住み、幕府おかかえの天文暦学者・高橋至時(たかはしよしとき)から専門的に天文暦学を学ぶことになります。これは文字通り、暦を作るための天文学ですね。
酒造家業を本職としていた若き日の伊能忠敬にとって、「趣味」のひとつが学問でした。
そして忠敬が興味をとくに示していたのは、この天文暦学です。
これはそれこそ現代日本の年齢感覚ではリタイア年齢として設定されていることの多い、65歳に相当します。
寛政6(1794)年には江戸に移り住み、幕府おかかえの天文暦学者・高橋至時(たかはしよしとき)から専門的に天文暦学を学ぶことになります。これは文字通り、暦を作るための天文学ですね。
酒造家業を本職としていた若き日の伊能忠敬にとって、「趣味」のひとつが学問でした。
そして忠敬が興味をとくに示していたのは、この天文暦学です。
渋川春海(1639-1715)という江戸時代前期の天文暦学者の手によって、正確な「貞享暦」は作られていたのではないの? と歴史に詳しい方は思うかも知れません
(ちなみに渋川の人生を描いたのが『天地明察』という作品です。映画化もされました)。
この暦が、ヨーロッパ・・・・・・つまり幕府にとっては「禁教」キリスト教の国からもたらされた科学知識を用いていることを知った八代将軍・徳川吉宗(1684-1751)は、暦を改訂したいと言い出します。
しかしの後の暦は「貞享暦」を超えられないという事態になってしまっていたのです。ですから酒造家の伊能忠敬は、新しい、それも正確な暦の作成に興味を持ったようですね。
しかし隠居後の伊能忠敬は天文暦学を本格的に学ぶにつれ、正確な日本の実測地図作成という、誰も成し遂げたことのない仕事に関心を向かわせていきます。
はじめて伊能忠敬が本格的な測量旅行に出たのは寛政12年(1800)年、かぞえで56歳の時のこと。その後、17年にも及ぶ日本測量旅行のはじまりでした。現在の年齢感覚でいえば70代に入ったあたりですから、なかなかの勇断ですね。
しかも当時、蝦夷地についての総合的な知識は、幕府高官にさえ、ほとんどないままでした。
江戸幕府の支配の拠点は、蝦夷地最南端に、小規模な松前藩(1万石)があるだけ。
その他の蝦夷地がどうなっているかには情報もなく、蝦夷地は日本の暗黒大陸のような扱いだったのです。
そこに現代の年齢感覚でいえば、70代くらいの男性が乗り込んでいったのですから、これは驚きです。
自分は知力・体力ともに優れているという自信は、伊能忠敬本人にもあったと思います。調査開始から亡くなるまでに、彼は約四万キロを歩きました。
単純計算で1日平均6キロを、しかも実測しながら歩きつづけたことになります。
伊能忠敬の用いた測量方法や器具には何種類かありますが、まず距離を測りたい2つの点(測点)を定め、その点の間の距離を糸巻きのような「間縄」、もしくは「鉄鎖」と呼ばれる器具で測っていくことが多かったようです。
単純に歩いて行けば良いわけでもなく、同じ道を行ったり戻ったりしたはずで、疲れたはずです。
たしかに江戸時代の人々は現代人にくらべて総じて健脚でした。現代の日本人の30代の男性の1日あたりの平均歩行距離は平均5キロですが、江戸時代の50代後半男性の伊能忠敬は、平均で約6キロを歩き続けたのですから、驚くべき記録ではないでしょうか。
伊能忠敬は健康を維持することに努力していました。薬を携帯して体調管理をおこたらず、早寝早起きをつづけたり、たいへん気を使っていたそうですよ。
人生100年時代。労働市場においてシニアの活躍に期待が集まり、人生の後半戦に突入…
記事を見る人生100年時代。労働市場においてシニアの活躍に期待が集まり、人生の後半戦に突入…
記事を見るこの記事を書いた人
作家・歴史エッセイスト
堀江宏樹
1977年生まれ、大阪府出身。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界をとわず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新作『本当は怖い世界史 戦慄篇』(三笠書房・王様文庫)が好評発売中。現在、『愛と欲望の世界史(仮)』(三笠書房・王様文庫)を執筆中。
著者についてこの記事が気に入ったら
いいね!しよう
ランキング 週間 月間