長篠の戦いで、養父・土屋貞綱と、実兄・土屋昌続を失った惣蔵は、二人の遺領と同心衆を受け継ぎ、勝頼に仕えた。
勝頼は必死に立て直しを図り、信玄時代よりも広大な領国を築き上げていく。よく誤解されるように、「武田家は長篠の戦いの敗戦のせいで没落し、その後すぐに滅亡した」わけではないのだ。
武田家が、織田信長・徳川家康・北条氏政の侵攻を受けて滅亡するのは、長篠の戦いから7年後である。
天正10年(1582)2月3日、以前から武田侵攻を表明していた信長は、武田攻めの命を下した。
織田、徳川、北条による侵攻が始まり、武田勢は次々と降伏や逃亡をしていく。
木曾義昌(勝頼の妹婿)はすでに織田方に内通しており、2月25日には武田家の親族衆筆頭の穴山信君(梅雪)が背く。3月2日には、勝頼の実弟・仁科盛信が城主を務める頼みの高遠城が、たった1日で落城した。
勝頼は織田勢の甲斐侵攻に備え、韮崎に「新府城」を築城し移転していたが、3月3日、新府城に火を放ち、妻子や家臣らと共に、小山田信茂の郡内岩殿城(大月市)へ向かった。地下人(土豪、有力百姓)たちはすでに逃散しており、勝頼の夫人の輿の担ぎ手すら逃げ失せているような状況だった。
3月10日には、なんと小山田信茂も離反する。笹子峠を封鎖して、勝頼を拒んだのだ。
勝頼ら一行に行き場はなく、天目山(正しくは木賊山(とくさやま)。天目山は同地にあった棲雲寺の山号)の麓の田野(甲州市)に入った。家臣も離散し、勝頼の側に残ったのは、惣蔵を含め僅か43人だったと伝わる。
明けて3月11日、ついに織田方の滝川一益勢の襲撃が始まった。残った僅かな家臣たちは死に物狂いで防戦し、討死や自害で命を散らしていく。
このとき惣蔵は、崖道の狭いところで岩角に身を隠し、片手は蔓に掴まり、もう片方の手に刀を握り、迫り来る敵を斬っては川底へ蹴落とし、また斬っては蹴落としを繰り返したという。現在も語り継がれる「土屋惣蔵の片手千人斬り」だ。
谷川の水は三日の間、血で赤く染まり、三日血川(みっかちがわ)と呼ばれたほどだと伝わる。
景徳院の駐車場にある標柱。日血川と書いてある (撮影・清之介)
当然のことながら、片手で千人の人間を斬れるはずもない。
それでも、その活躍は織田方からも絶賛されているので、惣蔵は「千」と称したくなるほど多くの命を、武田氏滅亡の道連れにしたのだろう。
惣蔵の最期は諸説あり、勝頼の自害を知ると敵陣に飛び込み討ち果てたとも、勝頼の介錯をしたのちに、自ら腹十文字に掻ききったともいわれる。いずれにせよ、立派な最期だったに違いない。
千の命を道連れに武田家は滅び、惣蔵も主君と運命を共にした。惣蔵のわずか5歳の息子・忠直(ただなお)は、生母に抱かれて脱出したという。
鳥居畑古戦場跡の石碑 ここで惣蔵らは死闘を繰り広げ、勝頼の自刃の時間を稼いだと伝わる。(撮影・清之介)
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