【人生100年時代を楽しむために、知っておきたい日本の歴史】「土屋惣蔵昌恒」千の命を道連れに。武田家滅亡と土屋惣蔵の片手千人斬り伝説(2)

人生100年時代。シニアの皆さまでも、知らないことや新たな発見が日々たくさんあることでしょう。 そこで今回は、意外と知られていないおすすめの日本史をご紹介したいと思います。 「武田家滅亡の道連れは千の命」――武田信玄で知られる甲斐の武田氏に仕え、最期の最期まで主君を守り、戦い抜いた土屋惣蔵昌恒(つちやそうぞうまさつね)。 その身は武田家と共に滅び去っても、その忠義、その武勇、その勇姿は、今も語り継がれている。敵からも称賛された惣蔵の「片手千人斬り」の活躍やいかに!
2019/04/04

信長の武田攻め、始まる

長篠の戦いで、養父・土屋貞綱と、実兄・土屋昌続を失った惣蔵は、二人の遺領と同心衆を受け継ぎ、勝頼に仕えた。

勝頼は必死に立て直しを図り、信玄時代よりも広大な領国を築き上げていく。よく誤解されるように、「武田家は長篠の戦いの敗戦のせいで没落し、その後すぐに滅亡した」わけではないのだ。

武田家が、織田信長・徳川家康・北条氏政の侵攻を受けて滅亡するのは、長篠の戦いから7年後である。

天正10年(1582)2月3日、以前から武田侵攻を表明していた信長は、武田攻めの命を下した。

 

織田、徳川、北条による侵攻が始まり、武田勢は次々と降伏や逃亡をしていく。

 

木曾義昌(勝頼の妹婿)はすでに織田方に内通しており、2月25日には武田家の親族衆筆頭の穴山信君(梅雪)が背く。3月2日には、勝頼の実弟・仁科盛信が城主を務める頼みの高遠城が、たった1日で落城した。

 

勝頼は織田勢の甲斐侵攻に備え、韮崎に「新府城」を築城し移転していたが、3月3日、新府城に火を放ち、妻子や家臣らと共に、小山田信茂の郡内岩殿城(大月市)へ向かった。地下人(土豪、有力百姓)たちはすでに逃散しており、勝頼の夫人の輿の担ぎ手すら逃げ失せているような状況だった。

 

3月10日には、なんと小山田信茂も離反する。笹子峠を封鎖して、勝頼を拒んだのだ。

惣蔵の片手千人斬り

勝頼ら一行に行き場はなく、天目山(正しくは木賊山(とくさやま)。天目山は同地にあった棲雲寺の山号)の麓の田野(甲州市)に入った。家臣も離散し、勝頼の側に残ったのは、惣蔵を含め僅か43人だったと伝わる。

 

明けて3月11日、ついに織田方の滝川一益勢の襲撃が始まった。残った僅かな家臣たちは死に物狂いで防戦し、討死や自害で命を散らしていく。

 

このとき惣蔵は、崖道の狭いところで岩角に身を隠し、片手は蔓に掴まり、もう片方の手に刀を握り、迫り来る敵を斬っては川底へ蹴落とし、また斬っては蹴落としを繰り返したという。現在も語り継がれる「土屋惣蔵の片手千人斬り」だ。

 

谷川の水は三日の間、血で赤く染まり、三日血川(みっかちがわ)と呼ばれたほどだと伝わる。

景徳院の駐車場にある標柱。日血川と書いてある (撮影・清之介)

当然のことながら、片手で千人の人間を斬れるはずもない。

 

それでも、その活躍は織田方からも絶賛されているので、惣蔵は「千」と称したくなるほど多くの命を、武田氏滅亡の道連れにしたのだろう。

 

惣蔵の最期は諸説あり、勝頼の自害を知ると敵陣に飛び込み討ち果てたとも、勝頼の介錯をしたのちに、自ら腹十文字に掻ききったともいわれる。いずれにせよ、立派な最期だったに違いない。

 

千の命を道連れに武田家は滅び、惣蔵も主君と運命を共にした。惣蔵のわずか5歳の息子・忠直(ただなお)は、生母に抱かれて脱出したという。

鳥居畑古戦場跡の石碑 ここで惣蔵らは死闘を繰り広げ、勝頼の自刃の時間を稼いだと伝わる。(撮影・清之介)

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